歴史を感じる牛久保城跡。
牛久保城跡の特徴
牛久保城は三河国の歴史が感じられる場所で、石碑や案内板があります。
礎石や土塁、堀跡が残る遺構には想像力を掻き立てられます。
牛久保駅から徒歩3分の距離で、アクセスも良好です。
戦国時代の爪跡(石垣等)が残る貴重な城跡。1529年築城、1560年「桶狭間の合戦」(この時点では今川義元に一端制圧されています)、1700年廃城。(174年間存在)城からは遠くまで見晴らしが良く当時の城も威風堂々として地域にねずいていたと思われます。初めは牛窪で後に牛久保に改称したとか。戦国時代は今川に制圧されたり、徳川家康に取り返えされたりと激しい歴史があり現代は城の石垣らしき物や墓、石碑(戦争の時の軍人)などが残っています。牛久保駅のすぐ近くにあり駐車場は有りません。私は近くのセブンイレブンでたくさん買い物して車を停めて歩いて来ました。『牛久保駅通り』がありこの辺りでは当時の様子を想像力が広がります。駐車場もトイレも無かったので評価☆3にしてしまいましたが、史跡のので足を運んだ価値は十分にあります。城からの見晴らしが良いのは戦国時代に城の必要条件だと思います。
線路脇踏切の横で、他は私有地で、1角に石碑、忠魂碑、石仏などを置いてあります。地元の方が手入れしているようで綺麗です。縄張り図もありますが、駐車場もないので、見学に値するかは、その方次第。遺構も整備されて残っていません。近くに今川義元公胴塚、山本勘助の墓もあるから、それらと一緒に見て回るのが良いかも知れません。
三河国聞書・三河国二葉松によると、牧野出羽守保成の築城。天正18年(1590年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡(群馬県前橋市河原浜町)に2万石を領して移動した。牛久保城は吉田城(愛知県豊橋市今橋町)に入った豊臣家臣池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久(平左衛門)が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は牛久保周辺は天領となり、城郭の一部が代官所になるなどして機能していたが、元禄13年(1700年)に廃城となった。現在は特に遺構らしきものはありませんが石碑と看板があります。
JR飯田線 牛久保駅のすぐ脇にありました。城址は小さな広場に牛久保城址の石碑があるのみです。入口脇に未舗装の道を通っていくと城址広場の裏に私有地の建物がありましたが史跡とは関係なさそうでした。牛久保城は戦国期、牧野氏の築城とされています。豊川の河岸段丘にうまく築城されたようですが、現在では段丘の上にあることはわかりましたが遺構はほとんど無いようです。花井寺から続く尾根状の段丘を下の田畑を望みながら想像するのみですが、なかなか風情のある地区だと思います。
碑以外には特にないっす。
令和五年四月九日の若葉祭(うなごうじ祭)の日に来ました。祭りの幟が立てられていました。
目立つようで目立たない場所にあります。はじめてこのあたりを散策した時は見つけられませんでした。まあ、地図も持たずに来たので当然なのですが。改めてきた時もただの公園に思えてスルーしそうになりました。城跡を想像するには、少し厳しいですかね。石碑を見てやっと想像できるといったところです。城址内の解説看板の古地図を見ると、長谷寺(山本勘助の墓)や大聖寺(今川義元公墓)のすぐそばまで堀があったようなので、そこそこ大きかったようですね。石垣くらい残っていたらよかったのになぁ、と思いました。
スタバから牛久保駅に向かう途中でたまたま見つけた牛久保城。思わず小躍りしてしまった。(2021_12_24)
JR飯田線牛久保駅横の踏切を渡るとフェンスに囲まれた場所があります。そこが牛久保衆を束ねた牧野氏の居城「牛久保城址」主郭付近です。
| 名前 |
牛久保城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0533-89-2206 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
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三河牧野氏の築城とある。松平氏に臣従する前は今川氏に属し、三河統一を目指す松平元康から攻撃されるも持ち堪えた。徳川家臣となり、家康が関東に移封されると牧野氏も従った。三河吉田城に池田輝政が入城すると支城となり、池田氏の家臣が入城。後、天領となり廃城となる。城は跡形も無く消滅。地名の字にのみ名残が感じられる。