新府城跡近くの光明寺、木曽義昌公の母のお墓。
木曽氏の墓の特徴
木曽氏の墓には木曽義昌公の母、嫡男、長女の墓があります。
新府城跡から徒歩約12分で辿り着ける便利な立地です。
墓地は光明寺の境内に位置し、歴史を感じる場所です。
木曽義昌公の母、嫡男、長女のお墓です。境内に案内板も設置されているので、場所はすぐにわかりました。立派なお墓でとても綺麗に整備されていました。木曽氏は1554年に武田氏へ従属しますが、木曽谷が美濃や飛騨と接する要所であることから、信玄公は三女を義昌公に嫁がせ親類衆として木曽氏を取り込みました。勝頼公の代となり織田との緊張状態が続く中で、勝頼公は木曽義昌公の家臣に知行を与え、木曽氏が武田氏に忠義を尽くすように家内工作を行うように指示を出したりと、木曽氏が離反しないように細心の注意を払っていたそうです。しかし1582年に織田方への内通が発覚。勝頼公は人質となっていた木曽義昌公の家族を処刑しました。
| 名前 |
木曽氏の墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.7 |
| 住所 |
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新府城跡から南へ徒歩約12分の場所にある「光明寺」の境内にあります。天正10年(1582年)2月、武田信玄の娘婿でありながら織田信長側に寝返った信濃の国人領主・木曾義昌の親族の墓所です。義昌の裏切りに激怒した武田勝頼は、人質として新府城に留め置いていた義昌の嫡男・千太郎(13歳)、長女(17歳)、老母(70歳)の3名を、新府城南側の「踊躍ヶ原(おどりがはら)」にて処刑しました。後年、彼らを預かっていた地元の郷士(上野氏)らが、戦国の世の犠牲となった3人を哀れんで光明寺に菩提を弔い、墓碑を建てて供養を続けました。主君の裏切りによって若くして命を散らした、人質の悲劇を今に伝える史跡です。