大谷吉継の美学、関ヶ原探訪。
大谷吉継の陣跡の特徴
大谷吉継が最後の戦いを繰り広げた歴史的な陣跡です。
国道21号線からアクセスしやすく、探訪にも最適です。
周辺には若宮八幡神社があり、歴史散策にぴったりの場所です。
国道21号線と旧中山道の分岐点を旧中山道側に数百メートル歩くと、若宮八幡神社の参道があったので、そここら東海道線を越えて登った先の分岐点を左側に折れて数十メートル歩くと陣所跡がありました。関ヶ原の戦いは旧暦の9月15日になりますが、現地の説明板によると大谷吉継は9月3日から既にここに陣所を構えていたとのことです。小早川秀秋が松尾山に陣を構えるのは9月14日とのことなので、どういう意図でかなり早くからこの山中の地に陣を構えたのか、いろいろ考えると面白くなってきます。
大谷吉継が、もっと兵を連れてくることができていたら、、あまりにも少な過ぎで、時間が足りなかったなか、頑張ったと思う。西軍の陣地をもっと堅固に固めることができ、弾薬を大量に持ち込み、要塞化できていれば、もう少し戦いを膠着化できていたのではないか。最近、後方の玉城の防備が固められていたことが分かってきているが、そんなことをしていなければ、もう少しやれたのでは。と思ってしまいます。線路下(東山道)にかけて結構な段差になっており、もっと人数がいれば、ここを落とせなかったような感じはします。宇喜多秀家と小西行長の陣の防備は今イチそうでしたが。関ヶ原の戦いのキーは、大谷吉継の兵数が少なかったことと、石田三成の陣の左奥を黒田長政に破られたことではないかと。行くと何となく分かる気がします。気がします。
男の美学を感じ2024年5月上旬、レンタサイクルでの関ヶ原探訪の際に寄りました。若宮八幡神社から山道を登って行きました。現地には石碑とのぼりと駒札があります。駒札には————————————————————-大谷吉継は慶長5(1600)年9月3日に山中村へ布陣した。ここは要害の地で、東山道(中山道)を見下ろせ、松尾山を正面に望むため、東軍の近江侵攻や、小早川秀秋の抑えにもなる。吉継は秀秋の不穏な動きを戒し備えた。その痕跡として塹壕状の横堀が東西に今も残っている。病を得ていた吉継は、馬にも乗れず輿に乗って後方から部隊を指揮したという。開戦後は藤堂高虎や京極高知らを相手に戦った。正午頃に秀秋が寝返ると、これを予想していた吉継は、予て備えていた一隊で迎え撃ち、兵力で圧倒する小早川隊の攻撃を跳ね返して松尾山へ押し戻すほどの働きを見せる。しかし、直後に脇坂安治らも寝返ったため、吉継は敗北を悟る。三方から攻められた大谷隊は衆寡敵せず壊滅した。———————————————————-とあり関ヶ原の戦いを学ぶことで大谷吉継のファンになりました。
| 名前 |
大谷吉継の陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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小早川秀秋の裏切りを予見し、真っ向からこれを迎え撃った大谷吉継最後の戦いの地です。東軍、小早川軍、脇坂等内応軍を同時に相手とした壮絶な戦闘と義に生きた姿に思いを馳せると、胸に深く迫るものがあります。なお、陣跡を示す碑に「大谷吉隆」となっています。これは西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「三好義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したということによるもののようです。駐車場から少し階段や山道を歩いて登る形になりますが、整備されているので足元に気を付ければ問題なく辿り着けます。木々に囲まれた陣跡は非常に厳かな空気が漂っており、ここで繰り広げられた激戦の歴史を静かに感じることができます。