史跡認定された特別な場所。
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| 名前 |
幕末の傑僧琳瑞上人 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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📍Google Mapに「史跡」として申請し承認されました。東北・山形に御縁がある人物と聞き、親近感があります。傳通院前の「幕末の傑僧琳瑞上人」の案内板は、小石川の寺町散歩の途中で見つけると、幕末史が急に身近になる地点でした。琳瑞上人は、天保元年(1830)に出羽国村山、いまの山形県河北町あたりに生まれ、幼名を細谷房蔵といいます。のちに浄土宗の僧となり、傳通院山内の塔頭・処静院に入り、安政4年(1857)には処静院二世となって律院化を進めた人物です。ここでいう「塔頭」は、大寺院の境内や周辺にある小寺院・別坊のこと。傳通院が徳川家ゆかりの大寺であるのに対して、塔頭はその山内を支える小さな寺院群で、処静院もその一つでした。琳瑞が面白いのは、ただの名僧では終わらないところです。案内板や浄土宗大辞典によれば、持戒が厳格で道俗の信仰を集める一方、幕末の政治にも深く関わり、公武合体論を唱えて水戸烈公・徳川斉昭の支持を得、高橋泥舟や山岡鉄舟とも親交を持ちました。井伊直弼にも志士たちの意見を伝えようとするなど、佐幕と勤王のあいだで折衝に動いたとされます。僧でありながら政治の最前線に立った人物で、「幕末の傑僧」という呼び方は大げさではありません。結末は悲しく、かなり重いです。慶応3年(1867)10月、琳瑞は高橋泥舟宅からの帰途、小石川の三百坂付近で刺客に襲われて命を落としました。傳通院前でこの説明板を読むと、清河八郎や新徴組発会の処静院跡とも近く、幕末の小石川がただの寺町ではなく、志士や警備組織や僧が出入りする政治の現場でもあったことが見えてきます。私は文京区の坂道や寺町を歩くのが好きですが、この案内板は、傳通院周辺の見え方を一段深くしてくれるものでした。派手な史跡ではないのに、読む価値がかなり大きい。きちんと案内が残されていることに、歩く側として素直にありがたさを感じました。