新井薬師で心の調和を探す。
スポンサードリンク
スポンサードリンク
スポンサードリンク
| 名前 |
新井薬師 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
スポンサードリンク
周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
書にて「新井薬師」をしらべてみます。【伝承の寺の話し】薬師堂の北側の山の上に、かつて大きなお寺があったという伝承が残っています。この「新井薬師」はその伝承にある「山寺」にあった「薬師堂」であって、「山寺」の廃寺の時に、ここ「東谷戸」に移設されたということであるようです。後でお話しする「位牌」に記された文字をみてみると「禅門、禅尼、和尚」とあり、このお寺が禅寺であったと考えます。当時、禅宗は単なる宗派ではなく、北条氏や足利尊氏と言った最高権力者が支持した「インテリ文化」であったと言えます。禅宗により当時の中国(宋、元)の学問、芸術、建築、そして「位牌」のような仏教儀礼が日本に伝わりました。つまりは、この山の上にあった寺は、ひなびた山奥の素朴な寺などではなく、鎌倉の最高峰の文化・知性がダイレクトに移植された、西多摩地域における最先端の文化センターの寺であったと考えます。【位牌の話し】古い位牌が2つ残っているとあります。古い位牌が2つ残っています。〇一つが「道西禅門 妙猷禅尼」と表面には2人の名前があり、夫婦、または一族の2人の「連名の位牌」となっています。この位牌を夫婦の位牌と考えて話を続けます。道西禅門(どうさいぜんもん)は夫の戒名で、康永三年(1344年)八月二十三日になくなったようです。妙猷禅尼(みょうゆうぜんに)は妻の戒名で、建武二年(1335年)九月十六日に亡くなったようです。妻が最初に亡くなって、その9年後に夫が亡くなり、伝承にある「山の上にあるお寺」で供養されたものと考えます。風土記に「薬師堂 村人持ち(つまり村人が管理している)」とあるように、この位牌は「よそ者の誰か」のものではなく、自分たちの村の基礎を作った祖先の一人であるということを理解していて、現在に至るのでしょう。〇もうひとつの位牌「前住西雲謙仲益和尚」「明徳(めいとく)三年(1392年)正月八日」とあります。「前住」(ぜんじゅう)以前住職を務めていた という意味です。「西雲 謙仲益和尚」(せいうんけんちゅうえきおしょう)法名、お坊さんの名前です。つまり西雲謙仲益和尚は、どこか大寺院で住職を務めた後、晩年にこの新井の「山寺」に最高顧問として迎えられ、そこで示寂された、偉大なお坊さんだったことが分かります。尚、日本に位牌の考えが入ってきたのは鎌倉時代(1200年代)と言われています。当時の最高権力者や大寺院の高僧の間だけで使われていた「大陸文化の最先端ブランド」でした。一般庶民に位牌が普及するのは、それからだいぶ経った江戸時代と言われています。この新井薬師の位牌は、日本における位牌の最古の部類に属します。日本に伝わったばかりの位牌という最先端の文化をこの地で残すことができたということは、位牌の主である「道西禅門」の一族が、当時この地域で相当な有力者であったことを物語っています。___________❶【参考 新編武蔵風土記稿 1830年】薬師堂除地7畝21歩。新井の内、東谷戸(ひがしやと)にあり。相伝える、昔この所の北の方なる山上に1宇の寺ありしか、いつの頃か廃寺となりし時、その山門にありし薬師をここにうつして安置せしという。今もその山を「山寺」とよべり。寛文年中の水帳(検地帳)にすでに「山寺」の名をのせたれば、かの寺の廃せしを置けり。堂は2間4方にて南に向へり、ここに古き位牌2基あり。面(表面)に「道西禅門妙猷禅尼」とありて、背に「康永三年八月二十三日 建武二年九月十六日」と記す。叉一つは「前住西雲謙仲益和尚 明徳三年正月八日」としるせり。その来由を詳(つまびらか)にせすぬ。叉 堂地の内 古碑 三、四基あり。文字 皆 滅して読へららず。村人もちなり。_______