歴史と共に過ごす、雷電宮の静寂。
大雷神社の特徴
大雷神社は平安時代創建の歴史ある神社です。
祭神には大雷命や高龗命が祀られています。
静かな雰囲気でゆっくりと参拝できる場所です。
大正13年の書には「郷社大雷神社・大雷宮」とあり、今「雷電宮」と改称の許可申請中である、とある。グーグルマップ上ではこの神社名が「大雷神社」とあるので、「雷電宮」と、改称の許可はおりなかった、という事になるのだろうか。祭神と配祀神(はいししん)があり、その数多いため、配祀神は下の欄にて紹介する。❶【参考 赤堀村誌 1978年】大雷宮(大正13年9月25日現在 による)[祭神]大雷命(おおいかづちのみこと・雷神、降雨祈願のご利益がある)高龗神(たかおかみのかみ・龍神、祈雨や止雨祈願のご利益がある)(主祭神)大山祇命(おおやまつみのかみ・丘陵の守護神)・「当社は藤原秀郷(ひでさと)5世の孫の 鎮守将軍(叙位1022年)である藤原頼行(よりゆき)の弟の足利兼行(かねゆき)が渕名の社を領するに及び、神明を尊び社殿を造営し、鎮座式をおこないしより、累世 崇敬厚く、特に神殿を寄進せらる。」とある。「渕名氏滅びて後、由良氏の封となるに及び、更に社殿を修理せらる。」とある。・「元弘3年(1333年)新田義貞、鎌倉追封の際、戦勝祈願せらる」とある。・「元亀2年(1571年)当時は市場に鎮座していたのを現在の西久保に遷座したとある。」・「寛政10年(1798年)領主_加納氏により 本殿、拝殿の改築し、社僧_大林寺_別当であったが、御遷座後、大光寺_社僧となり、毎年例祭執行の際は、御供米(おくま)2斗を奉進せらる」とある。「元赤堀村10ヶ村の御社なりしが、明治6年 勢多郡西野村、磯村の2村がくわわり、12ヶ村の御社となる」とある。・「当神社鎮座地は今尚雷電塚の称赫々(かくかく・光り輝いている意味)たり。古例 祭執行の際は、角力(すもう)、芝居等を行いて、神恩に答え奉る。ゆえに賽者群参(さいしゃぐんさん)する。明治元年以降、氏子の持ちとなり、祭事旧の如く神明を畏み(かしこみ)て、神社財産を寄進維持方法を確立して今日にいたる」とある。・「明治42年11月 下記の神社を合祀する大雷神社の境内末社5社、大字曲沢六道・村社 鹿島宮とその末社17社、大字香林花・木無格社 樺神社とその境内末社8社、大字磯子12所・村社 十二神社とその末社6社、大字野字社北・村社 菅原神社とその末社6社大字五目牛字北通・無格社 浅間神社社名を「雷電宮」と改称の件出願中である」とある。[鎮座地] 赤堀村大字西久保雷電859番地[旧社格] 郷社大雷神社[配祀神]健葉槌命、加具土命、健御雷命、大物主櫛甕玉命、八衢彦命、素戔嗚命、速秋津姫命、崇徳院天皇、菅原道真、保食命、火雷命、木花咲耶姫命、天御中主命、大物主命、上野国式内十二所神、火産霊命、少彦名命、大國主命、誉田別命、埴山姫命、大日霊命、大己貴命、経津主命、源為朝命、別雷命。
活気がなく地味。
雰囲気も良く、ゆっくりした時間が過ごせました。
大雷神社はー歴史のある郷社ですよー皆参拝しましょう。
初詣は必ず行きます。
神社名 大雷神社(たいらいじんじゃ・おおいかづちじんじゃ)祭神 大雷命 高龗命 大山祇命配祀神 健葉槌命 菅原道真命 火雷命 上野国式十二社大神 崇徳院天皇 源為朝命 他当社の創建は、平安時代の中期の頃、藤原秀郷五世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行が渕名の荘を領するに及び、神明を尊崇して社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝えられ、以来当社に寄せる代々の崇敬篤かったが、後に渕名氏が滅亡して由良氏の領地となるに及び、更に社殿の修理が為された。光厳天皇の御代の元弘三年(1333)五月新田義貞が鎌倉幕府追討の挙兵の際、当社に戦勝祈願したと伝えられる。(群馬県神社庁伊勢崎佐波支部著 伊勢崎佐波の神社誌より)境内参道の右側にブルーシートに覆われた土俵がありました。そう言えば自分が育った雪国の神社の境内にも、確か土俵があったなぁ~なんて思い出しました。
森村酉三1929本間三郎胸像→戦時供出、台座のみ現存。
| 名前 |
大雷神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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素晴らしい、高い位置から町並を臨んでいる。素晴らしい。