田中吉政陣跡で歴史を感じよう。
田中吉政陣跡の特徴
徳川家康最後陣地の近くに位置しています。
田中吉政が石田三成を捕らえた史跡です。
古代戦場の雰囲気を感じられる場所です。
行く時々に陣跡を写真撮影して関ヶ原古戦記念館に提示すると該当する陣跡だと陣跡印が購入できるけど、こちらは近いので該当なかった。この武将は数奇な武将人生だなぁと感じてる。
2025年10月12日さわやかウォーキングで訪問。
2025.9.21初訪問🚶🏻
関ケ原の戦い E東02田中吉政陣跡-----説明文より-----田中吉政は、約3千の兵を率いて細川忠興や黒田長政らとともに石田三成と戦い、激戦の末、最後は諸将と共同して石田隊を壊滅させている。合戦後、徳川家康に、逃走した三成の探索を命じられた吉政は、 古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜んでいた三成を捕縛する大功を挙げた。吉政は、同じ近江出身で親しい仲だった三成を丁重に遇したといい、三成はその礼として、豊臣秀吉から拝領し、最後まで佩用していた脇差「切刃貞宗」※を授けたと伝わる。※その由来から後に「石田貞宗」と称され、別に伝わる「石田正宗」とともに、現在では国指定重要文化財として東京国立博物館が所蔵する。
洞窟に潜んでいた三成を捕縛し、その功績で岡崎城主に。
吉政は関ヶ原の戦いでの勲功が認められて三河国岡崎城主十万石であったのが、筑後一国三十二万石の国持ち大名になったそうです。
街のあちこちの電柱に案内があります。
田中吉政と石田三成は同じ近江の出身で関ヶ原合戦の際、西軍が敗れて三成が伊吹山中に逃げ込んだ時に田中吉政に捕縛されます。三成は秀吉から賜った脇差を吉政に授けたとの事。戦後、三成捕縛の勲功により筑後柳川32万石の大名になりました。
10/8 訪問。
| 名前 |
田中吉政陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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関ヶ原の戦いにおいて、東軍の武将・田中吉政は、現在「陣場野」と呼ばれる地に陣を構えました。もともとは「関ケ原字甲斐墓」に陣跡がありましたが、昭和62年に現在の場所へ移設され、整備が進められています。この地から吉政の軍勢は、石田三成の本陣があった笹尾山方面へと進軍し、激しい白兵戦を繰り広げたと伝えられています。また、石田隊の右翼を担っていた蒲生郷舎隊との交戦もあったとされ、戦場の緊迫した空気が今もなお感じられる場所です。興味深いのは、吉政と石田三成の関係です。かつて親交のあった二人ですが、戦ののち、敗走した三成を捕らえたのは他ならぬ吉政でした。それでも吉政は旧交を重んじ、三成を丁重にもてなしたと伝えられています。三成もまた、「吉政に捕らえられてよかった」と語ったとされ、その言葉には戦を超えた人の情がにじみます。現在、陣跡には石碑が建てられ、周囲は散策路として整備されています。すぐ隣には「徳川家康最後陣跡」もあり、関ヶ原古戦場をめぐる旅の中で、戦の表と裏、そして人の心に触れることができる場所です。