里見義弘ファン必見の城跡!
佐貫城跡の特徴
里見氏と後北条氏の激戦を繰り広げた歴史的な城跡です。
中世城郭の遺構がしっかりと残っている貴重なスポットです。
南側に無料駐車場があり、アクセスしやすい場所に位置しています。
入口が少し分かりづらく車だと通り過ぎてしまうかもしれません。三ノ丸の手前の城入口に駐車場があります。空堀・障子堀・石垣・土塁・土橋・など遺構がたくさんあります。三ノ丸→二ノ丸→本丸→展望台と往復して所要時間30〜40分といったところです。二の丸と本丸の間の空堀、土橋がなかなか見事な印象でした。佐貫城は、初期の城主が定かではないものの室町中期から明治の廃藩置県まで城主がたくさん入れ替わりながら存続した歴史あるお城です。
真里谷武田家に始まり里見家、内藤家、松平家、阿部家などが入城し明治時代の廃藩置県まで続いた城跡です。里見流築城術の特徴である岩盤削りの空堀や切岸が特徴的です。大手櫓門跡に石垣が現存する房総では珍しい城で、近年の整備により大変散策しやすいので散歩にもオススメ。街道が集まる重要拠点として里見vs北条の三船山合戦はこちらの城から里見義弘が出撃、見事な奇襲により北条軍を撤退させました。三の丸跡に駐車場が設置されていますので車でも来られます。
城跡南側の大手口の西側に駐車場が有ります。すでに城域と思われ、土塁、石積みのある大手門跡を通って登って行きます。左手に三の丸跡があり、東側の立派な土塁が切れた箇所から東進し、二の丸方面へ向かいます。二の丸は虎口がしっかり残り、かなり広い曲輪です。本丸に向かう周囲は草刈されてました。本丸との間が見所で、空堀は深く幅広で土橋がかかり、本丸の土塁は高低差がありました。本丸の北西、北東側は切り立った崖で見張り台のようでした。見通しはそれ程でした。本丸東側へ降りると南北方向に切通があり、本丸南面は広く曲輪が存在しています。北面の曲輪に行くと檻が有り、罠にかかった猪を初めて見ました。暫くすると猟友会の方が来て、ヘッドショットされてました。お話を伺うと、早く処置しないと檻から脱走して人を襲うことも有るらしいです。東のほうの曲輪は岩肌が露出するような急な崖が見られました。帰りに三の丸跡の上部に向かうと、こちらも細尾根というか崖になっていました。比高こそ高くないですが、急な崖を多く利用する、房総らしい城跡だと思いました。
ワンちゃんと軽い散歩が出来ました。他に観光客は居なく、車の中でストレス感じてた、ワンちゃんには最高の気分転換になったかな(笑)駐車場と言う案内は無いので、少し迷いました。
夏に行って失敗だった。遺構は土橋、堀、土塁など。(石垣)またいくかも!
佐貫城は、室町時代後期から明治時代初頭まで城主が替わりながら存続した城である。佐貫城の築造年代については諸説があるが、真里谷武田氏が十六世紀初頭に築いたと言われ、武田信嗣が永正四年(一五〇七)に鶴峯八幡神社を再興していることが、その根拠の一つとされている。その後、天文年間(一五三二~一五五五)には、武田氏との争いに勝った里見氏の居城となり、永禄十年(一五六七)の三舟山合戦では、 里見義弘がこの城を本拠地として北条軍に勝利した。次いでその子梅王丸が居城したが、徳川家康の関東入部に伴って、里見氏は安房一国の支配に後退 。天正十八年(一五九〇)に徳川家臣の内藤家長が城 主となった。家長は二万石を与えられて佐貫藩の下地を作ったが、関 ケ原合戦の直前に戦死、次いでその子政長が元和八年(一六二二)まで在城した。内藤氏の後は、松平忠重 (桜井松平氏)が寛永十年(一六三三)まで、寛永十六年(一六三九)から松平勝隆・重治(能見松平氏)と続き、貞享元年(一六八四)に重治は所領を没収された。元禄三年(一六九〇)から元禄七年(一六九四)まで柳沢吉保がこの地方を治め、 その後十六年間ほどは幕府代官・旗本による統治となった。宝永七年(一七一〇)、阿部正鎮(一万六千石)が入封し、以後九代正恒まで百六十年にわたって阿部氏が城主となっていたが、明治四年(一八七一)の廃藩置県によって廃城となった。【現地案内板より抜粋】戦国期から明治時代まで続いた歴史ある城跡。それぞれの時代の遺構が残り、石垣もあり、空堀からの土橋のセットも見事です。下草刈りもしっかりとされており、城下町の雰囲気も含めて、のんびりと散策を楽しめます。
☆観光マップに載っていない城跡!?☆本当にこの房総半島には、忘れられ埋もれてしまいそうな名所がたくさん在りますね! この“佐貫城🏯”もその一ヶ所。場所的には富津市の山の手、細いクネクネ道の山村にあって、うっかりすれば通り過ぎてしまいそうな……💦です。一応駐車場らしき広場は在りますが、砂利敷きの荒れ地に近いですね。さてこの“佐貫城”何代にも城主が変わり、明治時代の廃藩置県により廃城となった、二万石前後のお城🏯だったそうですが…。ふもとからの経路はあまり手入れされておりませんが、立て札をたどって登って行くと、順に痕跡が確かにわかりますね。そして、この山城🏯の意外な規模の大きさに驚くことでしょう! 本丸の先、てっぺんには展望台らしき(櫓の跡!?)所が在り、☆遠く“東京湾観音”が見えました☆歴史と由緒の遺構は大事にしたいものです。*帰りぎわ、よく見ると経路のあちらこちらに、猪の掘り返しの跡が💦💦💦さらにふもとでは、藪の中から3羽のキジが💦💦💦
土の城ながら幕末まで続いた近世城郭らしく、大手には立派な石積みもあります。城内も案内標柱が充実していて歩きやすいです♪
城跡や歴史には疎いので、遺構の状態の良さ等は分かりませんが、新緑にお日様の光が映える良い山道であることは確かです。とは言っても、往復で30分と掛かりませんが…もう初夏なので大分草が繁っていて、ヤブ蚊も多く、遺構をゆっくり見る余裕はなさそうです。けれど、立派な楓があったり、展望台には大きな桜の木が立っていたりと、いずれの季節に訪れても豊かな自然が歓びをもって迎えてくれそうです。歴史的観点からご興味のある方は冬にゆっくりご覧になった方が良さそうです。
| 名前 |
佐貫城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
城址へは徒歩だと佐貫町駅から30分くらい、バスなら駅から神野寺行きバスに乗り、「牛房谷」バス停で下車すれば大手口に近い。車なら大手口に広い駐車場があるが、変電所を過ぎて左手(神野寺方面)を注意深く見てないと見逃してしまうかも。駅からは右カーブ手前にある。城址へは4年ぶりの再訪。当時は大手口から三の丸、二の丸、本丸を経て北側の国道127号へ抜けたルートだった。今回は三の丸北側の堀切、本丸東側へも足を伸ばした。今回は、ネット上で広島市立図書館所属の「諸国古城之図」(刊行本あり)にある佐貫城図を元に天守台を発見したとの記事を見て、「諸国古城之図」を踏まえて実際の状況を確認する目的で訪れてみた。佐貫城は武田、里見、北条各氏の支配を経て、江戸期には内藤、松平、柳沢、阿部各氏の居城となった歴史を持つ。従って、戦国期と江戸期の特徴を併せ持つ城跡であり、その範囲も時代とともに変化している。里見氏の特徴である岩盤を削り掘り下した堀切、垂直に切り立つ切岸、尾根伝いに広がる郭群、北条氏の畝堀、江戸期の山麓に拠点を移した縄張など、この城跡には時代時代の特色が複合的に存在している。大手口から進み、二の丸への案内表示に従わず、左手の三の丸沿いに坂を登ると、垂直に削られた切岸と段々に連なる堀切に出る。右手上には本丸と二の丸間の空堀末端を確認できる。造作のあり様は里見時代に見えるが、江戸時代には居住空間である三の丸への溢水対策や用水確保の為にも利用していたのかもしれない。二の丸と本丸間の横堀は圧巻だ。樹木も伐られその大きさを実感できる。堀底を歩くと畝の連続で、障子堀か否かは不明だが、攻略しにくい工夫を体験できる。堀北側の先は三の丸北側の堀につながり、末端からは高さを実感できる(落ちないように!)。今回の目的である天守台は、本丸北側の、西展望台(松天神)と東展望台(松八幡)の中間に確認できた。北側の一部は崩れてしまっているのでは?とのこと。広島市立図書館所属「古城之図」では2階建の建物の絵が描かれている。東西の物見台の間の天守が北の街道を監視する様子を妄想するのはなかなか楽しい。本丸東展望台の南に「古城之図」では門が描かれている。現況でも虎口があり、本丸東側の堀切と字名「産所谷」へ通じる道(搦手口?)につながっている。この堀切はかなり重要な場所だったのではないか?堀切は城の南北を貫通し、更に本丸へ直ぐにつながる場所である。本丸東側堀切の対岸は、岩盤を掘り下した郭になっており、岩盤上からは南北の状況をよく監視できる。まさに攻守の要の場所だったのでは無いだろうか?「古城之図」では、本丸東側に曲輪を描いてはいない。しかし、つながる尾根上は削平されているようであり、里見時代の趣を感じる。『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書II』の図では「(北上砦跡)」との表示(想定地)もある。佐貫城と街道を挟んで往来を監視していたのかもしれない。城跡北の北上川、南の染川や通行路を意識した立地であることを改めて考えさせる城跡だ。まだまだ研究の可能性を秘めた遺構だと実感させられるとともに、4年前よりも更に見学しやすいように城址を維持管理している地元の方々に心から感謝したい。