幕末の息吹感じる反射炉。
那珂湊反射炉跡の特徴
幕末の水戸藩により大砲鋳造のため築造された、歴史の息吹を感じる場所です。
復元された反射炉跡は、幕末の緊張感を実感できる貴重な遺跡です。
美しいツインタワー状の煙突と周囲の自然が、訪れる人を魅了します。
公園内には、立派な門と、反射炉、大砲、煉瓦焼成窯が残っていて、展示されています。反射炉は、大砲を作る設備、煉瓦焼成窯は、その反射炉に必要な大量の耐火煉瓦を生産するための設備だったみたいです。日本史は詳しくないので、解説看板の詳細をそこまで汲み取ることが出来ませんでしたが、水戸藩の重要建造物だったようです。知名度の割に、相当重要な遺構だったので驚きました。【解説看板】幕末、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、海防の要を唱えて領内各地 に砲台を築くため、大砲鋳造を目的として当吾妻台に建設したのが反射炉(大型の金属溶解炉)である。建設にあたっては、薩摩藩士竹下矩方、三春藩士熊田宗弘、南部藩士大島高任らの協力を得て、那珂湊の大工飛田与七や瓦職人福井仙吉が尽力した。安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年に2号炉 (東炉)が完成した。高さ約15m、使用された耐火煉瓦は 約4万枚といわれている。元治元年(1864年)の元治甲子の乱で破壊され、昭和 12年に現在の模型が、ほぼ原型どおりに復元された。2023/10/25 訪問。
茨城県指定遺跡で幕末の水戸徳川家の当主斉昭公が大砲建造の為に薩摩藩や他藩の藩士の協力を得て作らせた。現物は水戸藩内の内輪もめの際に失われたので、当時の製法を忠実に再現したものが作られた。高台にあるので、見晴らしが良い。
まず、現在の反射炉は昭和12年に復元されたものです。水戸藩第9代藩主の徳川斉昭公が海防の要を唱えて江戸幕府から多額の資金を借り受けて建造することとなった。藩には反射炉(大型の金属溶解炉)の知識を持つ人材がいなかったため、斉彬の重臣である藤田東湖と交友のあった薩摩藩の竹下清右衛門、三春藩の熊田嘉門、盛岡藩の大島高任などの協力を得て建設した。1855年に第一反射炉、1857年に第二反射炉が完成し、この反射炉で造られた大砲は約20門。1864年に元治甲子の乱で天狗党に破壊されてしまった。天狗党の首領格は藤田東湖の四男・藤田小四郎。父・藤田東湖が建設に尽力した反射炉を息子が破壊する結果となってしまった。
幕末に造られた鉄製の(西洋式)大砲を製造するのに必要な炉の跡です。幕末の天狗党の乱で破壊され、今は復元された反射炉が建っています。天狗党は余計な事しかしないなぁ。復元ですが立派な炉で、下から眺めると圧巻です。入口の門は江戸の水戸藩邸の門を移築したもので、堂々としており貫禄があります。
天狗党の慰霊建物が倒壊間近で取壊され、粗末な扱いをされてる。建物を建てるお金も無いのだろう。天狗党が忘れ去られていて、天狗党の功績も現代人には伝わっていないのでしょうね。明治維新にて、天下の先駆け水戸を牽引した天狗党を、忘れてしまっていいのかな?桜田烈士や天狗党は、明治維新の先駆けで、その後に長州が立ち上がって行って、倒幕・維新を完成させたんですよね。明治維新で水戸烈士の功績は、なぜ高く評価されず、水戸から政府高官は排出されなかったのかな?倒幕維新で長州と水戸は高く評価されるべきなのでは。(水戸の評価が低い)肥前(佐賀)の奴らは何もしてないだろうし、薩摩や土佐は後から調子良く、乗っかってきただけです。肥前が、出しゃばって出てきたのが、面白くない。
美しいツインタワー状の煙突ではあるけれど、他に見るものがないので1回行けば十分かな。
斉昭公が大砲鋳造の為に建築した反射炉(復元)で、近くに煉瓦焼成窯の復元模型もあります。反射炉というと世界遺産に登録された韮山反射炉が有名ですが、こちらもなかなかのものですね。(^○^)
3月3日の投稿です 初めて那珂湊反射炉跡に行き 写真を撮りました 情報では 知っていたのですが 直に見ると 大変立派なものでした となりの 門 も大変立派でした 今の時期 椿が大変綺麗でしたそして さくらも 少し咲いていました。
復元された反射炉跡です。耐熱煉瓦の窯も復元させてました。入口の山上門は移設されたそうですが、教科書にも出てくるレベルの幕末の志士達もここを通ったそうです。何気にめちゃくちゃ貴重な建築物だったので驚きでした🧐
| 名前 |
那珂湊反射炉跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
029-301-5449 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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大砲の鋳造を目的に作られた水戸藩の反射炉。1200℃を超える高温で金属を溶解・製錬する溶鉱炉です。現在建っているものは、昭和12年に復元したものだそうです。