澄みきった空気の印岐志呂神社。
印岐志呂神社の特徴
平安期まで遡る由緒ある古社で、延喜式内社です。
大己貴命を御祭神とし、他にも二ノ宮神社や恵比須神社があります。
県道26号線からアクセスしやすく、迷わず訪れられます。
印岐志呂(いきしろ)神社と読むそうです。読み方が難しいか当て字ぽい神社は雰囲気が良かったり由緒のある場合が多いのですが印岐志呂神社も例にならった場所でした。御祭神は大己貴命と神代七代の国常立尊で祀られている二柱も偉大ですが、大和国三輪大社から分祀された由緒もあります。参道は木々に覆われ静かで心地よい雰囲気で寺院のような門をくぐると境内がひらけ大きくて立派な拝殿が出迎えていただけます。秋の柔な日差しと心地よい風が心地よく立派な流造の本殿前へたどり着けました。静かで心地よく、またとても美しく整備された神社です。駐車場もあるので自動車で向かえます。
月に一度のご参拝で訪問。歴史を感じる社殿。とても静かな境内でゆっくりご参拝できました。天智天皇の時代に創祀されたとのこと。神社は元々古墳だったそうです。
延喜式内社であったと伝わり、少なくとも平安期までは遡る由緒を持つ古社である。近江東山道(中仙道)と都の短絡路である志那街道に面し、古代に朝廷の屯倉(みやけ\u003d食糧庫)が置かれたとも伝わる。南北朝時代には建武兵乱に際して、朝廷方に反旗を翻して関東より攻め上る足利方と山法師(由緒書では『道場坊宥覚』、太平記では『成願坊』)が激戦を繰り広げた場所でもあったことから、古来より交通・軍事・物流の要衝となっていた。確かに太平記巻十四には『伊岐州の杜』という名で出ており、広大な社叢は軍勢の駐屯にも適地であったに違いない。また現存の社殿は慶長年間に叡山の復興に活躍した、芦浦観音寺の詮舜により再建されたものとのこと。幽邃な杜に囲まれ、千年以上この地に鎮座されてきた歴史に思いをはせることができました。
大阪北摂から、今こそ滋賀6!! を利用して旅行に来ています。宿泊施設から近い神社を巡っております。赤い大鳥居と縣社印岐志呂神社と刻まれた社号標が参道にあり、広めの神社ですね。
印岐志呂神社 (いきしろ神社)です。守山市今宿と志那港を結ぶ、志那街道沿いにあります。門の左右に渋い石積。そして大きな本殿と拝殿がありました。こちらの神社の神の使いは鶏だそうで、鶏の石像があります。普段は宮司さんはいなさそうでした。駐車場は十数台はとめられそうでした。
御祭神 大己貴命 国常立尊境内社 二ノ宮神社、三ノ宮神社、樹下神社若宮神社、稲荷神社、恵比須神社、奥御前神社天智天皇の勅願により、奈良県の三輪神社から分祀されたと伝えられています。
朝早くにお参りしました。良い神社です❗
毎年の初詣には、ご近所の方が多く参拝されます。普段は、ひっそりとした雰囲気の神社です。夏越の大祓には「茅の輪くぐり」が出来ます。
レンタサイクルで周りました。田んぼの中に赤い鳥居が映えます。
| 名前 |
印岐志呂神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
077-568-2895 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 10:00~13:00 |
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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印岐志呂神社(いきしろじんじゃ)。滋賀県草津市片岡町。式内社(小)、旧県社。主祭神:大己貴命 配祀 国常立尊資料によると、創祀年代は不詳。社伝によると天智天皇の勅願により、大和国より三輪神を分祀し、敏達天皇十三年栗太郡常盤村に社殿が造営されたという古社で、式内社・印岐志呂神社に比定されている大社である。境内は芦浦町と片岡町の境にあり、芦浦は安閑天皇の御代、屯倉が置かれた場所。古くから農耕が盛んな土地の農耕神として祀られた神社だと考えられている。『和漢三才図会』には七カ村の氏神で狐を神使とするとあり穀霊である稲荷神としての性格を持っていたのかもしれない。ただし、現在は本殿前に神鶏の像が置かれ、鶏を神使としているようだ。また、社伝によると、用明天皇即位二年夏、悠紀(ゆき)地方に定められ印岐志呂(由紀代)と名付けられたとある。ただ『太平記』などには、伊岐洲、伊岐須、伊幾須などと書かれ、「イキス」とも称されていたらしい。鹿島の息栖(いきす)社は「沖洲の津」の意味らしいが、湖岸に近い当社と何か関連がありそうな気もする。また、当社の西、琵琶湖側に風神を祀る志那神社が鎮座しており、風の強い地方の息吹きの神を祀っていることにも関連しそうな気もする。永暦年中、源義朝尾州攻略の時、頼朝の武運を当社に祈願し、建久元年、その報賛のため頼朝が社殿と神田を寄進。建武三年正月、比叡山僧宥覚が山門の義徒一千余人を率いて足利軍高師直と戦い、さらに脇屋義助が足利尊氏の将京極道誉と戦って戦場となったため社殿焼失。後、足利尊氏によって再建された。また、織田信長の佐々木攻めにより社殿が焼失。慶長四年、芦浦観音寺の詮舜が再建。中世以降は、湖東平野に散在する延暦寺領の年貢を収納する出先機関であり、琵琶湖湖上交通に関する権益で権力のあった観音寺の支配を受け、代々の観音寺住職によって社殿の造営が行われた。境外の田の中に、一夜伏塚と呼ばれる塚があり、伊岐志呂神の神塚と伝承されているらしい。明治九年十月郷社に列し、大正六年七月二十一日県社に昇格した。本来祭神は大己貴命一柱だったが、明治四十三年四月二十三日、国常立尊を配祀した。とあります。参考として、「悠紀地方(ゆきちほう)」とは、天皇の即位儀式である「大嘗祭」において、神に供える新米を育てる「斎田(さいでん)」が設けられる、国内の二つの地方のうちの片方です。具体的には、亀卜(きぼく)という占いの結果、宮中より「東側」に位置する地方が「悠紀地方」と定められ、そこに斎田が作られて新穀を栽培します。\ufeffもう一方は「主基地方(すきちほう)」で、京都以北以西の西側が主基の地方と定められていました。