倉田水樋、歴史の流れを感じる。
倉田水樋水源跡石碑の特徴
倉田水樋は1673年に設置された歴史ある水道です。
江戸時代の長崎の発展を感じられる貴重な史跡です。
国内で4番目の大都市としての背景を知る文化財です。
倉田水樋は延宝元年(1673年)に倉田次郎右衛門が設置したいわゆる「水道」です。ただし、浄水施設がなく、川の水をそのまま桶に溜めて木樋や竹樋で長崎市内に配水しています。配水は、当地から八幡町まで中島川沿いを開渠で引き、麹屋町をとって銅座町まで、一方は中島川を水樋で渡して大井手町から築町まで引いています。古写真や長崎水道百年史から考えるに、中島川(銭屋川)に堰を築き導水路を引き「倉田水車」を通して引き込んでいた模様です。江戸初期の長崎は国道34号線付近以外は全て海の下でしたので、埋築して街を作ったところで水が出ない。水は井戸頼みとなるのですが、各山裾には良い水が沸くのですがそれ以外は良い水が出ない。町の人達は良い水が出るところにお金を払って水を汲みに行っていた。または、水売りが回ってきていたので、お金を払って水を買っていた。そこで、倉田次郎右衛門の登場です。初代倉田次郎右衛門は1620年頃商売のために長崎へ来て晋代を築きます。2代目が晋代財産全てをかけて水道施設を作ったのです。持っていた家も船も売り払って水道施設。この「水道」も明治の本河内からの水道が供給されるまで使用されていますが、雨が降ったりしたら濁って使えなかったと、あまり評判も良くなかったようです。ただ、長崎の人達はこの「水道」と井戸とをうまく使って、明治の「水道」を迎えます。長崎は、この江戸期の人口爆発から、明治の人口増加、軍事工場増加は昭和初期まで続き、その後の戦後復興の間に水水水と水不足で苦労したことと思います。今も、渇水による水道配水制限も時々あるようで、今も続いています。ここに行くには、駐車場がないので、近くのコインパーキング等に止めて歩いていかれることをお勧めします。
| 名前 |
倉田水樋水源跡石碑 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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鎖国政策で海外貿易の独占港となった長崎は人口が5万人を超え、江戸、京都、大阪に次ぐ国内で4番目の大都市に発展し、海岸や低地の埋め立てが行われ市街地が形成されていく。しかし、埋め立てにより拡大された市街地では湧水はほとんど望めず、人々は生活用水不足により多大な不自由を強いられてきた。当時は「水売り」が町々を回ったり、ほとんどの住民が丘陵地に出る良質の水を毎日「もらい水」していた。寛文11(1663)年3月8日、長崎は「寛文の大火」に見舞われる。大火は市中を焼き尽くし、66か町中全焼57か町という極めて大きな被害をもたらした。結果的に町民に対して、組織的消防力の強化とともに用水供給施設の開発の必要性を意識づけることとなる。そしてこの大火により一念発起し、自費により水道を引こうとした人物が本五島町の乙名で廻船問屋の倉田次郎右衛門である。次郎右衛門は、水源を中島川に設け木樋や石樋等を通して溜桝により給水する工事を行う。しかし当時としては大規模な工事で、膨大な出費を要しましたため、次郎右衛門は費用を工面するために宅地や回送船など自分の財産を投げ打ち、また長崎奉行所の援助を受けて、延宝元(1673)年、ついに長崎で最初の水道が完成した。これが「倉田水樋」と呼ばれるもので、明治24(1891)年に長崎の近代水道が創設されるまでの218年もの間、人々の暮らしを支えてきた。このような大規模工事を、一町民の発意により私財を投じて完成させた水道は他に例が無いという…倉田水樋は小学生の時に学んだが、息子の小学生時代も引き続き教えられていた。地元の偉人を学ぶ事、公に生きた人々を学ぶ事はとても良い事だと思う。