歴史を感じる弾薬庫跡。
手安弾薬本庫跡(奄美大島要塞跡)の特徴
昭和7年に構築された旧日本陸軍の弾薬庫跡です。
コンクリートの鉄骨が剥き出しで、歴史の重みを感じられます。
南西諸島の重要な軍事拠点だった弾薬庫の保存状態が良好です。
はいどうも日本一周旅したYoutubeやってる(名前はジュンジュン)です奄美に来たので弾薬庫捜索まるでドラクエのダンジョン電気つけてぐるっとまわったらそこらじゅうにドラキー出現造りはしっかりしてたから崩壊はしないだろうが寒くて不気味だった。
奄美大島南部の瀬戸内町にあります。国の指定史跡です。大量の弾薬が保管されていたそうで、終戦で弾薬は海に捨てられたそうです。照明は各自でつけます。見る価値はあります。
教習所の事務所の正面にあります。教習所の方にひと声かけて車を停めさせてもらいました。無料で見学でき、照明は自分でつけて帰りに消す方式です。戦時中は弾薬貯蔵補給基地として厳戒態勢がとられ、地元の人もこの壕の存在を知らなかったそうです。
手安弾薬本庫跡(奄美大島要塞跡)〒894-1531 鹿児島県大島郡瀬戸内町手安540奄美大島南部には、太平洋戦争の痕跡が残っています。太平洋戦争末期には、沖縄への前進基地や本土防衛の最前線として位置付けられ、奄美大島南部と加計呂麻島には旧陸海軍の軍事施設や部隊が整備・配備されました。終戦後、奄美大島は沖縄とともに米軍の統治下に置かれ、本土復帰を果たしたのは8年後の昭和28年(1953年)です。この弾薬庫跡は、案内板によると当時の弾薬庫としては珍しく、規模や構造が日本で最も優れた施設だったとされ、鹿児島大学による学術調査も行われています。なお、弾薬庫内は崩落防止のため立ち入り禁止となっており、手前から中を覗く形で見学することになります。訪問日は2024年11月9日、案内板のようなものもなく、右折する場所がわかりづらいなと思います。●旧陸軍弾薬庫跡この弾薬庫跡は、旧陸軍により昭和七年に構築完成され、戦時中は南西諸島及び南方防衛の海陸空軍弾薬貯蔵補給基地として厳戒体制がとられていたため地元民はこの壕の存在すら知らなかった。終戦により、武装解除とともに大量の弾薬が運びだされ、当地沖の大島海峡にすてられて、初めて弾薬庫という事がわかった。この施設の内部は網の目に組まれた鉄骨を厚いコンクリートで固め、さらに銅板を張りめぐらせ空気が洩れないように、又、湿気防止のため周囲は空間を設け風圧に耐えるため二重壁の構造になっているなど、当時の弾薬庫としては珍しく規模、構造とも日本で最も優れた施設であったと言われている。弾薬庫見取図瀬戸内町。
入る時は電気のスイッチを入れて、出る時はスイッチを消すようです。中はコウモリがいっぱいいて怖かったです💦
自動車学校の敷地に到着するので、いちおう受付に声を掛けて車を停めさせていただきました。快く応じてくださいました。
自動車学校の事務所駐車場に車停めまして第1、第2は他の方々が投稿してますので案内図の通り木で覆われてますが第3弾薬庫(違うかも)もあります。扉がついてますが。
昭和7年(1932年)に旧日本陸軍が構築した弾薬庫の跡で、無料で見学できます。2カ所入り口があり、通路は奥でつながっています。それぞれの通路の入り口には電気のスイッチがあるので、自分でスイッチを入れて灯りをつけ、退出時に消灯する仕組みです。奄美大島要塞のすべての砲台用の弾薬を保管していたそうです。風圧や湿気から弾薬を守るため、外壁の内側に空間を設けてもう一つ壁がある二重壁の構造になっています。規模や構造は当時の日本で最も優れた施設だったといわれていますが、終戦とともにすべての弾薬は大島海峡沖に廃棄されたそうです。戦争遺跡として国指定史跡となっています。
2023.12.5そこそこ広い弾薬庫です。入口に照明のスイッチがあるので、点灯させてからでないと真っ暗です。庫内は2重の壁になっているようで、そのような広い空間が二箇所に分かれています。手入れは行き届いており、安心して中に入れました。
| 名前 |
手安弾薬本庫跡(奄美大島要塞跡) |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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当時の空気を体感出来ます。多少なりとも保存で修復されてますが、学習にはとても良かったです。