武田信玄の首塚、異様な静けさ。
簗瀬八幡平の首塚の特徴
二子塚古墳の隣に位置する八幡平の首塚は、心霊スポットとして知られています。
戦国時代に滅ぼされた武将たちの首塚であり、独特の異様な雰囲気を醸し出しています。
古色蒼然としているお堂には、人骨を収納している部分が見える格子があります。
二子塚古墳の西隣りにある謎のベールに包まれた円墳。昭和初期に、墳丘で発見された、中世紀頃のおびただしい頭蓋骨を供養するために、お堂が建立されている。首から下はなく、戦国時代の戦乱の犠牲者?
別の群馬県内の首塚を調べていたら此処の情報がありましたので参考にどうぞ。簗瀬八幡平(かたせはちまん)の首塚 磯部の首塚❶【参考 原市町の首塚へ供養塔 上毛及上毛人より抜粋 昭和10年】グロな史跡として全国的に知られてきた碓氷郡原市町八幡平の首塚は、昭和6年発掘依頼、4月25日が四周年となり、東京魚河岸連中の舟二会員によって建てられた大供養塔の除幕式をかね当日は首塚保存会員200余名による念仏会があり、各地からの参詣人で非常な賑わいを呈した。なお発掘された 280余りの首 は八幡太郎義家の家臣等であるといわれているが確実な事は判明せず、四周年を機会に徹底的調査をせよと云う馨が旺である。280余りの首がでたそうです。昭和10年の頃、八幡太郎義家の家臣と見られていたようです。❷【参考 簗瀬八幡平の首塚 躍進群馬県誌より抜粋 昭和30年】原市簗瀬の八幡平という所に文字通り首ばかりが埋まっている塚で珍しい史跡である。戦国時代の戦死者の首塚だという説もあり、あるいは大量に処刑されたものであろうという説もあるが、昭和27年の調査では戦国時代と推定され、ほとんど男子のくびだということであるがなににしても今の始末知数である丈けに魅力がおおきく今後の研究の結果が期待されている。昭和27年に行われた調査により、戦国時代と推定されたようです。❸【参考 首塚のできるまで 大田の史話より抜粋 昭和63年】元弘3年5月 新田義貞による鎌倉攻めの際、戦死者の野ざらし状態の死体を集積埋葬供養したものとされている。同じく群馬県原市町簗瀬八幡等の磯部の首塚も150体に及ぶ合戦の戦死者の供養のための埋葬と考えられる。叙上の例からすれば当時の合戦等の戦闘行為による戦傷死者が戦場であった現地にある期間野ざらし状態で放置されたのは、古代、中世を通じて戦士の宿命であったと考えねばならないであろう。戦死者の野ざらし状態の死体を集積埋葬供養したものがこの塚であったようで、数字だけにクローズアップすると280体のうち150以上が戦死者という事でその他はその戦にて亡くなったものという事となる。
簗瀬二子塚古墳脇にある小さなお堂は八幡平の首塚と言われてます。かつて武田信玄が上州攻めをした際の敵の首級を弔った場所との伝承ですが二子塚古墳発掘時に多数の髑髏が見つかったそうです。
シャレコウベがゴロゴロ出てきたとき小学生はどう思ったのか気になりますやはり戦国時代は血なまぐさい。
墳丘の上にお堂が築かれており、全体像がよくわからない。
心霊スポット昭和初期に多数の頭蓋骨発見いわれは、戦国時代に武田信玄上州侵攻作戦により滅ぼされた武将らしい。
古墳の西側に武田信玄が箕輪城方に属した当地周辺を攻めたときに築いた、八幡平陣城跡地がある。
明るい時間に行くと塚は凄く綺麗に見え心霊スポットとは分かりませんが、祠のようなものの近くは異様な雰囲気です。祠の近くの松ぼっくりは凄く大きく立派な松ぼっくりで、ある人は首の養分を吸って大きくなったと言っていました。
皆さん見に行ってください。
| 名前 |
簗瀬八幡平の首塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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中世のものとされる頭蓋骨が大量に出土した首塚。昭和初期に発見され、東大の調査により頭蓋骨が中世の人間の特徴を持つ事が判明している。5台ほど駐車可能な駐車場があり。