土方歳三 最期の地を訪ねて。
一本木関門の特徴
函館市の史跡で土方歳三の最期の地と伝わる場所です。
江戸時代の名残を感じさせるレトロな雰囲気が魅力です。
国道5号沿いで観光スポットにも近くアクセスが便利です。
土方歳三さんの最後になった場所と言われています。派手さのないところがまた胸に沁みました。
諸説ありますが土方歳三の最期の地と言われています。観光客がうろつくエリアとは反対側の落ち着いた住宅街の中にあります。ひっそりと佇んでおり、哀愁を感じます。
我この柵にありて、退く者を斬る。土方歳三という人物を知って以来、いつか訪れたいと思っていた念願の場所でした。学生の頃に司馬遼太郎の燃えよ剣を読んでいたのでずいぶん長いこと掛かってしまいました…鹿児島から遠すぎます。函館に着いて、真っ先にこちらに向かいました。日が暮れるのが鹿児島より1時間ほど早いのでちょっとビックリしました。そんな日没前だったからなのか、周囲には誰も居りませんでした。石碑や門、看板などの他には何も無いしひっそりとしているので仕方ないかもしれませんが五稜郭タワーの土方の像の前にはかなり人が並んでいたことを思うと意外な気がします。でもおかげでじっくり見れましたし写真撮影することができました。日常的にお手入れして下さってる方々もいらっしゃると思います。とても綺麗にしておりました。ありがとうございました。
【2025.04】土方歳三終焉の地。五稜郭内に土方歳三を最初に埋葬されたとされるマウンドが残っているが、ここは公民館?の一角に碑文と柵が残っている。
人の死に関する話は、大概いくつかの逸話があるとされます。今回も例外ではなく、諸説あります。この地から函館台場に向けて参じた際、撃たれると…。ずいぶん前のように思いますが、避けよく考えれば、150年ほど前のことなんですよね。
函館駅から徒歩圏内。もう少し立派なのを想像してましたが予想より質素な感じでした。
札幌からの帰り途中で真夏の夜に寄らせてもらいました。感慨深い。土方歳三を思い浮かべ、しばし夜の静かな公園で想いを馳せてました。
国道5号の若松町地名案内板付近にあった関所(かつてあった大下水(排水路)にかかる若松橋付近)。現在地は旧函館市立若松小学校跡で土地の都合でここに再現されている。実質総合福祉センターの前庭になるのでセンター営業時間内の訪問が無難。
「函館市:一本木関門」函館駅から北東へ約500mほどの場所に「土方歳三 最期の地」という石碑があります。石碑は小さな公園の中にあり、片隅に土方歳三が戦死したとされる一本木関門が再現されています。『会津陥落後に仙台で榎本武揚と合流。そして最後の戦場(死に場所)を求め、箱館に渡る。』土方歳三は転戦を繰り返し、新政府軍が蝦夷地に攻め込んだ際は、旧幕府軍陸軍奉行として二股口へ一隊を率いて出撃します。防御陣地を構築し、新政府軍を相手に銃撃戦を展開。箱館への進攻を食い止めていました。そんな中、大鳥圭介が守備する木古内・矢不来が突破され、退路を絶たれる前に五稜郭へと撤収します。五稜郭を見下ろす箱館山をも占領されるのですが、ここを抑えられると負けが確定するとみるや、弁天台場に孤立した旧新選組の救出と、箱館の町を奪還すべく、明治2年5月11日に五稜郭から最後の出撃をします。そして、土方は一本木関門付近で狙撃に遭い、馬上にて腹部に被弾。戦死したと伝えられています。享年35歳でした。
| 名前 |
一本木関門 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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2018年10月17日道南にある日本100名城、続日本100名城の城巡りで函館へ函館二日目は松前城、上之国館跡、弁天台場、新選組最後の地など回りたいので6時にホテルをチェックアウトして函館に来たからには是非立ち寄りたかった土方歳三最期の地に立ち寄った。一本木関門は、箱館戦争(1868–1869)の終盤、旧幕府軍が五稜郭を中心に防衛線を構築した際に設けられた防御拠点の一つで、現在の函館市若松町付近に位置していたとされる。当時、この周辺は市街地化が進んでおらず、五稜郭から函館市街へ向かう主要な通路を押さえるための関門(チェックポイント)として機能していた。関門は、木柵や土塁、簡易なバリケードなどで構成され、敵軍の進入を遅らせる目的で設置されたと考えられている。周辺には旧幕府軍の歩兵が配置され、新政府軍の進軍に対する防衛線の一部を担っていた。1869年5月11日、新政府軍が函館市街へ進撃した際、この一本木関門付近で激しい銃撃戦が発生したと伝えられている。新選組副長・土方歳三が戦死したとされる地点も、この関門周辺であったという説が有力で、現在の「土方歳三最期の地碑」は、この史料に基づく推定地点に建てられている。現在、一本木関門そのものの構造物は残っておらず、周辺は道路・建物が整備された市街地となっている。当時の地形は埋め立てや都市開発により大きく変化しているため、関門の正確な位置は断定できないが、史料・古地図の比較から、おおよその位置が示されているにとどまる。