巨椋神社で心落ち着くひととき。
巨椋神社の特徴
地元の氏神として、子供のお宮参りにも利用されています。
旧巨椋池の鎮守社で、歴史ある神社の雰囲気を感じられます。
武甕槌神や経津主神が祀られており、静かな信仰の場です。
雰囲気が良く参拝させて頂きました。中学生が境内を掃除をして、地元の人達に愛されていると思います。御朱印は、拝殿の左側のご自宅でインターホンを押して頂きました。優しい対応で気分が良かったです。初穂料は頂けないとおっしゃいましたが、賽銭箱に入れさせて頂きました。
延喜式式内社です。樹齢300年とも言われる椋木の巨樹が素晴らしいです 社伝によれば嵯峨天皇の勅命により春日神が勧請されたと伝えられていますが、一方で当初は当地に居住した「巨椋氏」が祖神を祀ったのではと考えられています。因みに巨椋池は、1933年以降に干拓されて今は一面田圃になっています。
お参りさせていただきました!お賽銭を入れたあと御朱印を書いていただきたく奥の社務所でインターホンを押して書いていただきました。時間は何時でもいいですよとの事でしたが17時頃までにいくと良いと思います^^凄く感じのよろしい方でした。またお伺いします。
ここの神社は地元の氏神さまで自分もですが子供2人もお宮参りで御世話になりました。歴史も古い宮さんです。
ムクノキの巨木が守護となり出迎えてくれてます。宇治は平安時代から貴族の別荘地となり奈良街道の要所でもあります。玉露の発祥地の石碑がありました。
祀られている神様は分からないのですが、ホッとする場所です。駐車場が分かりにくいのですが、奥に停めれる場所はありました。
巨椋神社おぐらじんじゃ京都府宇治市小倉町寺内91祭神武甕槌神(たけみかづちのかみ)経津主神(ふつぬしのかみ)天児屋根神(あめのこやねのかみ)姫大神(ひめのおおかみ)創建当時は古代氏族の巨椋連が祖神を祭祀していたと思われますその後巨椋連が没落し平安末期に藤原氏の祀るところとなり春日系の神社となり春日神が祭神となりましたなお巨椋池が昭和時代の戦前までありました池と言うより湖で周囲約16キロメートル水域面積約8平方キロメートルで当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった現在その面影は皆無です2022/2/22 参詣 晴れ時々曇り、時折 風花(雪)
初めてお参りさせてもらいました。子守神社もあって子供達の健やかな成長をお祈りしました日本の未来のために、小さな神社も大切にしたいと思います。
かつて存在した巨椋池の鎮守社でしゃうか?境内の巨木はムクノキかな??歴史がありそうだが案内板などは設置されていませんでした。
| 名前 |
巨椋神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0774-21-2709 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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巨椋神社(おぐらじんじゃ)。京都府宇治市小倉町寺内。式内社(小)、旧村社。【祭神】武甕槌神 経津主神 天児屋根神 比咩神【関係氏族】巨椋一族資料によると、広い境内に巨大な椋が多数あるほか杉、椎、榎などある。この社の近くには昭和16年に干拓を完了した広大な巨椋池が水を湛えていた。「巨椋池」は、太古に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残である。洪積世第三期末から第四期にかけての激しい地盤の変動によって出来た凹地に水がたまったものである。やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、この湖水はしだいに狭められ、最後に一番低いところが巨椋池として残った。巨椋池のほとりを拠点としていた巨椋氏一族がその祖神を祀ったのが創祀と言う。『新撰姓氏録』に、巨椋氏は「山城国神別 巨椋連 今木連同祖、神魂命五世孫阿麻之西乎乃命之後也」と記している(阿麻之西乎乃命、今木連は百済系)。木地師の一族である。この関係で惟喬親王(これたかしんのう)の子守神社の創建にもつながっているのだろう。木地師とは、ろくろ(轆轤)を使って、椀や盆などの円形の木製品の「木地(きじ)」を削り出す職人で、文徳天皇の第一皇子である惟喬親王を祖とし、親王が隠棲していた際に人々に木材加工の技術を伝授したと伝えられています(百済渡来系の技術)。次第に藤原氏の影響をうけるようになつたとみられ、巨椋社が藤原氏の支配下になつた時期に祭神も今みるような内容になつたものとおもわれる。巨椋氏から藤原氏へ祭主が変容していつた時期は、平安後期に想定される。とあります。