平将門の歴史に触れる、島広山。
島広山・石井営所跡(坂東市岩井)の特徴
住宅街の中に忽然と現れる歴史的な史跡です。
平将門がゆかりのある石井の営所跡で魅力を体感。
小綺麗に整備された場所から地元の熱意が伝わります。
平将門の拠点として、宿舎や食料庫などが、設置されていた跡地です。将門記には将門は平貞盛や藤原秀郷の連合軍に敗れ、島広山・石井営所跡はすべて焼き払われたと伝わります。将門の活躍した時代を感じることができる跡地です。
出張の合間を縫ったプチ一人旅で立ち寄りました。春日部で借りたレンタカーの返却までに2時間ほど余裕があり、「どこに寄ろうか」と考えたときに思い出したのが、平将門公ゆかりの史跡たち。坂東市観光協会のHPに紹介されていた中から、時間の許す範囲で行けるだけ回ろうと、ざっくり旅程を決めて向かいました。正直、車載ナビが「目的地に到着しました」と言っても、すぐには史跡らしき気配が感じられません。営所跡の50メートルほど南に、数台分の駐車スペースがあり、ようやく「どうやらこの辺らしい」と車を降りました。石碑に向かって歩きながら、つい大きな声で「マジかー」と独り言が出てしまうほど、あまりに唐突な立地でした。奥に広がる畑と民家のあいだに突然現れる石碑。なんでこんな風になってしまったのか...不思議な史跡です。ここは将門公の本拠地として、政治と軍事の中枢だったとされる場所。こういう開けた本拠地に、かつては兵馬の声が響いていたのかな、と懸命に想像しました。最終的には、平貞盛と藤原秀郷によって、この営所も焼き払われたと伝えられていて、遺構など存在しないのかもしれませんが、それでも、いつか何かが見つかればいいなと思いました。ちなみに、現在の大きな石碑は明治期に建てられたもの。学術的な発掘の成果によって場所が確定されたわけではなく、「この辺りが将門公の本拠だったのではないか」という推定のもとに設置されたそうです。当時は、東京・神田明神ですら、明治天皇の行幸に際して将門公を祭神から外すほど、皇国史観において悪人とされていた時代。そんな中で、この石碑をこの場所に建てた人たちの意図を思うと、不思議な気持ちになります。昭和51年には大河ドラマ『風と雲と虹と』で将門公が主人公として描かれ、昭和53年に新たに建てられた石板には、いまや消えかかった文字で「将門の真意は久しく誤解されて来たが」と刻まれているので、そのころには随分と史観が現代的になっていたのだろうなと思います。当時は岩井市だったのが、20年前に市町村合併で坂東市になったみたいですね。
明治期に建てられた石碑の周辺を坂東市が整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれています。将門が蜂起したとき、数千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。この上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点でした。石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方に大敗します。この夜襲の記録と共に地名が記されています。平安時代の天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。発掘調査等は行われていないので具体的な位置や規模は不明です。
狭い路地に忽然と現れますが、五十年前に訪れた時は、ここも観光地状態だった記憶があります。今は静かに当時の営所の様子を思い浮かべるのに適した静けさです。
ここは将門公の館があったと伝わる場所です。
【当史跡】は、桓武平氏の名門である平将門(タイラノマサカド)が、下総国北部(茨城県南部・千葉県北部)において勢力を維持拡大した拠点の場所である。【経緯】彼は、父良将(ヨシマサ)の相続に伴い領地について身内との争いとなるとともに、他の豪族から揉め事で頼りにされて役所を攻撃することとなり「平将門の乱」を引き起こした。乱の平定に「平貞盛(タイラノサダモリ)」や「藤原秀郷(フジワラノヒデサト)」が大きな功績を挙げたことで、秀郷は藤原北家魚名流であり鎮守府将軍として陸奥国に勢力を伸ばす一族(奥州藤原氏)や関東中央部を支配する武家諸氏が現れ京都でも武門の名家として重んじられ、貞盛の子孫から「平家にあらずんば人にあらず」と言った平清盛が誕生し武士としては初めて太政大臣に任じられ、日本初の武家政権を打ち立てた。この出来事は、武家による治安行為が社会的に必要とされたことが武家政権の誕生を萌芽させることとなった。【所在地】は、茨城県坂東市岩井1603(〒306-0631)である。【観光地】としては、近くには彼の三女如蔵尼が彼の木造座像を御祭神とする「國王神社」、彼が喉を渇かした際に老翁がこの水を提供したとされる「石井の井戸」、その老翁を祀る「一言神社」及び当史跡の鬼門守護であり國王神社の別当寺である「延命寺」が平将門関係の史跡である。少し離れれば平守明が紫宸殿前の桜を株分けし彼のゆかりの地に植えたと言われる「九重の桜」、彼の最後の戦いの地に後に源頼政が彼の無念を嘆き慰霊するために建てた石碑が発見された「北山稲荷大明神」、彼の胴塚がある「神田山延命院」などもある。【コロナ】対策は、屋外施設なので、特に洗浄液等の設置は無いが、来場者もほとんど無いと思われるので問題ない。【接道】は、県道結城坂東(20号)線の弓田橋南信号の一つ南の信号機を東に進んで、「平将門営所跡島広山」の案内標示に従い右斜めに進入すれば、道なりに左に曲がれば直ぐ右手に当史跡がある。【駐車場】は、どうにか普通車1台か、又は軽自動車2台が駐車可能である。接道は通過交通が無いので、タイミングを見計らって写真を撮影しました。【トイレ】は、未整備なので、ここに来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベストである。
国王神社の後にここを訪れました。手前に駐車場があったので車を止めてそこから50mぐらいです。真正面には人が住んでいない?古民家、両隣は新築の住宅に囲まれているので史跡という雰囲気はあまり感じませんでした。
本当に考古学的に正しい位置にあるのか謎だが、小綺麗に整備されているのを見ると、地元行政の平将門史跡に関する熱量を感じられる。
少し離れた所に車3台分位の駐車場があります。
| 名前 |
島広山・石井営所跡(坂東市岩井) |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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平将門伝説でここを拠点に関東一円を掌握した場所らしい島広山という小高い地域だったらしい近くに数台駐車できる駐車場有り。