春の墨と白梅、古き良き宴。
東鴻臚館址の特徴
東鴻臚館址は外国使節を接待していた歴史的な場所です。
ここから角屋や大門へ続く散策ルートが魅力的です。
与謝蕪村の句と共に、梅の香りが漂う静かなひとときを楽しめます。
京都市下京区西新屋敷揚屋町(角屋のきた)にある、平安時代の外国使節を接待する為の施設です。島原遊郭の西門跡の少し手前に近くにあります。今で言う、京都迎賓館という所です。鴻臚館「こうろかん」は,外国使節を接待するための施設で、平安京では,羅城門北側に朱雀大路をはさんで左右に東西鴻臚館が建てられましたが、弘仁年間(810~24),東西市の設置に伴い七条北のこの付近に移転しました。渤海国の賓客をもてなし詩会などが行われたが,同国の滅亡(927)により鴻臚館も衰微した。この石標は東鴻臚館跡を示すものである。鴻臚館は海外からの使節の迎賓館であるとともに、日本から旅立つ遣唐使や遣新羅使のための宿泊場所でもありました。 吉備真備、最澄、空海、円仁など日本の礎を築いた多くの人々がここから旅立ちました。 唐へと向かう船旅は、およそ半数の船が遭難するほどの危険なものでした。高麗人が滞在していたのは鴻臚館です。海外からの使節団を宿泊させて歓迎する施設で、当時は唐ではなく、渤海国との取りていました。今で言うと、御所にある京都迎賓館がそれに当たります。鴻臚館は鎌倉時代には廃止されたが、江戸時代になって同じ場所で島原遊郭として栄えることになる。渤海(ぼっかい)とは、現在は高校の教科書にも取り上げられているが、かつては謎の国とされていました。奈良・平安時代に日本が外交関係を取り結んだ国のひとつが渤海である。渤海は現在の中国沿海州・ロシア・北朝鮮にまたがった地域にあたり、高句麗の遺民たちによって建てられた国とされる。平安時代を通じて安定的に日本が外交をおこなっていた国は渤海だけであり、日本は意外に大きな影響を渤海から受けているのである。東鴻臚館跡>JR山陰本線(嵯峨野線) 丹波口駅 徒歩約10分市バス 島原口 徒歩約10分<西鴻臚館跡>JR山陰本線(嵯峨野線) 丹波口駅 徒歩約5分。
石碑:東鴻臚館址鴻臚館は,外国使節を接待するための施設。平安京では,羅城門北側に朱雀大路をはさんで左右に東西鴻臚館が建てられたが,弘仁年間(810~24),東西市の設置に伴い七条北のこの付近に移転した。渤海国の賓客をもてなし詩会などが行われたが,同国の滅亡(927)により鴻臚館も衰微した。この石標は東鴻臚館跡を示すものである。建立年 1915年建立者 (京都市教育会)寸 法 高112×幅18×奥行18cm碑 文[東] 此附近 東鴻臚館址[南] 寄附者 中川徳右衛門[西] 大正四年十一月建之 京都市【以下埋没「教育会」カ】(京都市)文芸碑:平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。平成十三年十一月吉日 島原伝統保存会白梅や 墨芳しき 鴻臚館 蕪村与謝蕪村(俳人 1716~1783)Monument: Higashi Korokan RuinsKorokan is a facility for entertaining foreign envoys. In Heian-kyo, Tozai Korokan was built on both sides of Suzaku-oji Street on the north side of Rajomon Gate. Poetry ceremonies were held to entertain guests from Balhae, but Korokan also declined with the fall of Balhae (927). This stone marker indicates the ruins of Higashi Korokan.Established 1915Founder (Kyoto City Education Society)Dimensions Height 112 x Width 18 x Depth 18 cmInscription[East] Higashi Korokan Ruins near here[South] Donor Tokuemon Nakagawa[West] Kenyuki, November 1914 Kyoto City(Kyoto City)Literary monument:During the Heian period, Suzaku-oji Street ran north-south through the center of Kyoto, and two Korokan buildings were built to the east and west north of Shichijo. At that time, the only people who used this hall were envoys from Bohai, not Tang. The government at that time welcomed Bohaikyaku very much, and in order to show the national prestige of Japan, they played Rinyugaku and held poetry gatherings, but these were abolished around the 20th year of Engi (920). It is significant that such a place for entertaining guests with such a long history was revived as a place of hospitality culture in Shimabara in the Edo period.November 2001 Shimabara Tradition Preservation SocietyHakubai and Sumiyoshiki Korokan BusonYosa Buson (Haiku poet 1716-1783)
春の日に鴻臚館の辺りを歩いていると、芳しい墨と白梅の香りが立ち込めてきた時の心情を詠った与謝蕪村の句が添えられています。
角屋の塀に沿って北向きに行った所に碑があるのみです。此処に島原七つの文芸碑めぐりの七番目の碑があります。
今は跡形もない渤海ですが当時の日本は渤海と友好関係にあり渤海使節をここで歓待し音楽などでもてなしたようです丹波口駅から歩いて島原界隈散策に来たのでここから角屋、大門へと続きます。
島原にはかつて多くの揚屋があったここは史跡でしか残っていない。
| 名前 |
東鴻臚館址 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si019.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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松原大門から西進む突き当たりにある表示盤。