中久喜城跡の歴史を感じて。
中久喜城址の特徴
周囲からも明らかな主郭の手つかずな残り具合が魅力です。
本丸跡が整備され、訪れる価値があります。
水戸線を越えないと全体を把握できない、独特の城郭跡です。
【中久喜城跡)中久喜城は、小山市大字中久喜に所在する中世の城郭で、西仁連川と谷戸田(低湿地)に挟まれた台地の先端部に位置します。城跡の範囲は、東西約四〇〇m南北約四五〇mで、城は、JR水戸線によって南北に分断されていますが、北側の住宅部分を除いて、遺構は良く残っています。城はこれらの遺構から、三つの曲輪によって構成されていたと考えられます。曲輪は、周囲を二重の土塁と空堀で囲み南側には枡形虎口(出入口)が設けられています。曲輪内には「城ノ内」の地名が残り、本丸にあたると思われます。また「西城」の地名のある曲輪日は、南西角から北に向かって土塁がみられます。曲輪中央には、南北に延びる道に沿って屋敷が並んでいたことが想定されています。曲輪皿には、土塁などは認められませんが、「万年寺」の地名が残されています。戦国時代に当地より移したと伝えられる小山氏の菩提寺万年寺(本郷町)との関わりが推測されます。この中久喜城の築城年代は不明です。十四世紀後半に関東地方を揺るがした小山義政の乱のさい、義政が鎌倉府と戦うための根拠地とした城の一つである「岩壺城」ではないかといわれています。その後、天正十八年(一五九〇)に、小山高朝の子で結城政勝の養子となった結城晴朝が隠居して「中久喜栃井城」に移ったことが『結城御代記』(一八五二年成立)にみえ、この城は「栃井城」とも呼ばれていたようです。中久喜城は、祇園城と結城城の中間に位置します。小山政光を共通の祖とする小山・結城の両氏を結びつける重要な役割をになった城であったことがうかがえます。しかし慶長六年(一六〇一)に、結城氏が越前に転封になると、廃城となりました。
主郭の部分が概ね(線路で切られているところを除いて)残っている感じ、周囲からみてもその部分が手つかずで残ったのがわかる。主郭以外は宅地になっている。結城との市境に近く不便なところで、車がないと訪問しづらいだろう。私は小山駅でレンタサイクルして訪問。
2022/10/2この城は城域がかなり広かったらしく、私は案内板から線路向こうまでの主郭しか見ていないが、それでもなかなかの規模である。堀は案内板のあたり以外は分かりにくいが、土塁はよく遺っており、見応えがある。土塁の雑草を駆除できれば、更に良いと思うんだか。
本丸跡が整備されていて、見る事ができます。大手側の空堀が圧巻です。
史跡巡りで寄りました。何も無い小高い山とお堀跡が当時のお城を想像させてくれます。土台が堅牢に造られていて今も残るのは凄い事ですよね。植物を上手く使い崩れないように。昔の人達の技術力は自然との融合であり近代的です。
踏み切りを渡ると大手口、主郭まで行くことが出来ます、案内板あり。
小山市中久喜にある城郭跡で、舌状台地の上にあります。整備途上で古道が残っていたり、遺物発掘が進んでいないため、駐車スペースがあまりありません。国道50号から直接アプローチできる道はなく、北側の県道から当地にはアプローチできます。同じ西仁連川水系下流に小山・結城氏関連の城郭、逆井城があります。三方を湿地に囲まれており、台地の上には、兵馬を相当数用意できる地形的な利点があります。
中久喜城跡の土地を所有しています。
整備されておらず、駐車場もない。主郭は藪が深すぎて、立入禁止ではないが、入れるもんなら入ってみろ、的な感じ。遺存状態はいいのだが、入るのに勇気と覚悟が必要な場所だらけ。ほんのわずか、土塁と堀が見やすい場所があり、その辺りに石碑と解説板が立っている。
| 名前 |
中久喜城址 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0285-23-1111 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
入り口付近に石碑がありました。これを見落として帰りに発見して撮影しました。石碑の先に黄色い立て看板で「順路」とあり駐車できます。駐車スペースの前も城郭の一部で土塁や水堀が確認できます。順路通りにすすむと一周して、駐車スペースに戻ってこれます。