清洲会議の歴史に触れる旅。
織田秀信終焉の地の特徴
高野山黒河道の途中で訪れる史跡として魅力的です。
清洲会議の主役、三法師の終焉の地を知れて感動しました。
様々な歴史的背景が楽しめ、訪問する価値があります。
有名な方の終焉の地としてはかなり寂しい場所。
織田秀信卿の終焉の地。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。関が原の戦いの前哨戦で岐阜城は落城、その後、剃髪し高野山に入ったが、高野山での待遇は悪く(高野山と祖父の信長は敵対関係)、虐めにあうなど苦労したとの逸話を聞いたことがあります。(高野山も意外と大人気ないなと思いました。)高野山を下山し、ほどなく没したと歴史書で読んだことはありましたが、終焉の地がここだったとは知りませんでした。高野山からの帰り道に偶然通りかかって、看板を見つけた時は、岐阜出身者としてご縁を感じました。歴史の表舞台からひっそりと消えてしまった秀信卿。この終焉の地では地元の方に暖かく迎えられたとあり、安らかな最期であれば良かったなと思います。地元の方も今まで守り伝えていただきありがとうございました。(卿は太政官の高官(参議以上)を指す敬称。公は太政大臣・左大臣・右大臣などの三公(さんこう)級の高位官職、あるいは高位の貴族(くげ)そのものを意味する敬称です。)《解説看板》織田秀信公は、織田信長の嫡孫で幼名を三法師と称した。文禄元年(1592年)13万5千石の岐阜城主となり、慶長五年(1600年)関が原の戦には、西軍に味方して破れ、加納(岐阜本)の円徳寺に入って剃髪した。秀信公は、高野山に入ったが程なく下山し、ここ相質荘向副村に閑居した。里人に暖かく迎えられた秀信は、生地新左衛の家「町野」を妻とし一子をもうけた。向副村を終焉の地と定め慶長十年5月8日(1605年)波乱にみちた生涯を開した。位牌は、今も向副観音寺に祀られ、地元向副の人たちによって守り伝えられている。なお、善福寺跡には、秀信公の墓と伝える自然石の墓石が残されているが、銘文は対まれていない。下壇には、大正七年四月、織田氏の後裔や有志によって建てられた高さニメートルの遺跡保存の記念碑があり、秀信公を偲ぶことができる。
勉強になりました。
色々なものがあってとても楽しめます。
墓の無い人生は儚い。
道路沿いの看板から少し上がったところにあります。小さすぎて見逃すかもしれないので注意です。
高野山黒河道の途中、道を間違えて偶然通りました。後で秀信を調べたら三法師だったので、道間違えでラッキーでした。
清洲会議の主役三法師の終焉の地 その後の人生がどうなったか知れて良かったです。
| 名前 |
織田秀信終焉の地 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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清須会議で秀吉に担ぎあげられた三法師丸のお墓です。関ヶ原の合戦では西軍として岐阜城で奮闘するも敗れ、頭を丸めて高野山に送られたものの昔信長が高野山を攻めた事もあり山麓のこの村で余生を過ごしたそうです。