ふじみ野市で文化財を体感。
弘安の板碑の特徴
ふじみ野市の『徳性寺』で歴史を感じる体験ができます。
見逃せない貴重な文化財がある史跡です。
『山門』だけでなく、訪れる価値のあるスポットです。
『山門』目当てで訪れた、ふじみ野市の『徳性寺』にはもう一つ見るべきものがあります。市指定文化財の『弘安の板碑』です。青石(緑泥片岩)の美しい色味と、中央に深く刻まれた阿弥陀如来の梵字(キリーク)、そして下部にある「弘安四年(1281年)」の刻印。2度目の蒙古襲来「弘安の役」のまさにその年に建てられた、歴史の重みを放つ素晴らしい遺物です。元寇から52年後の西暦1333年5月、鎌倉幕府を滅ぼすために激動の南下を続けた「新田義貞の鎌倉攻め」にこじつけると、その時期には確かに存在していたこの板碑が見ていたかも知れない歴史の1シーンを想像して鳥肌が立ちます。以下は僕の想像です。◇新田義貞が率いるメインの本軍は、一刻も早く鎌倉へ突入するため、ここから数キロメートル西側を走る「鎌倉街道上道」の本道を一直線に最短ルートで突き進んでいきました。そのため、義貞本人がこの板碑を目にした可能性は低いと言えます。しかし、歴史のリアルな地理と軍勢の広がりを考えると、別の可能性が浮かび上がります。群馬を出発したときには小規模だった新田軍ですが、南下するにつれて各地の武士団が次々と合流し、入間川へ達する頃には数万から十万以上という凄まじい大軍に膨れ上がっていました。これほどの数の軍勢が狭い本道一本だけを進むと大渋滞を起こすため、中世の軍隊は並行する東側の枝道(脇街道)にも部隊を分散させて同時に進軍させるのが鉄則でした。この板碑がもともと建っていた大井べん天の森(坂上の石塔畑)付近の古道は、まさにその分散ルートにあたります。義貞本軍を支え、東側の防衛や進軍を担った「新田軍の別働隊」、あるいは新田側に味方するために大井の館から出陣していった地元武士たちの軍勢が、馬のいななきと土煙を上げながら、この古道を駆け抜けていった可能性は極めて高いと思われます。鎌倉攻めが行われた激動の5月。本軍の進路からはやや東に外れたこの高台で、建てられてからまだ50年ほどだったこのピカピカした青石の板碑は、左手に兵たちの熱気と足音を感じながら、幕府滅亡へと向かう歴史の決定的な1シーンに確かに立ち会っていたのではないでしょうか。
徳性寺 (とくしょうじ) の山門脇にある弘安4 (1281)年の阿弥陀一尊板碑。高さ117センチメートル、幅31センチメートル、厚さ3センチメートル。鎌倉時代後期の有力者によってつくられたと思われる。この板碑は、大井氏の館跡ね場所の一角、東台の「坂上の石塔畑 (せきとうばた) 」 から出土した。徳性寺境内にある他の大小の板碑もその周辺から出土したと伝えられる。
徳性寺 (とくしょうじ) の山門脇にある弘安4 (1281)年の阿弥陀一尊板碑。高さ117センチメートル、幅31センチメートル、厚さ3センチメートル。鎌倉時代後期の有力者によってつくられたと思われる。この板碑は、大井氏の館跡ね場所の一角、東台の「坂上の石塔畑 (せきとうばた) 」 から出土した。徳性寺境内にある他の大小の板碑もその周辺から出土したと伝えられる。
| 名前 |
弘安の板碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
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貴重な文化財。