昭和3年の寒川を感じる。
松戸橋跡の特徴
石碑と案内があるだけのシンプルな史跡です。
細かな装飾はなく、歴史を感じられる場所です。
手軽に訪れることができる静かなスポットです。
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石碑と案内があるだけです。
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| 名前 |
松戸橋跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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寒川に深い関係のある筆者が書きしるした昭和3年の寒川の書に松戸橋の事が書かれている。この頃は、まだ名の由来となった松も健在であったようだ。橋に面した大山街道の様子にも触れており、当時はまだ宿場町としての名残が残っていたようで、道の両脇には百余りの商家が立ち並んでいたようである。❶【参考 寒川巡り 昭和3年】寒川駅を左に見ながら、線路の踏切を越えて小川に沿って南すること約3町で東西の大路(おおじ)に出る。右手の石橋は松戸橋と言って名高い。この橋名のおこった松も、震災前の如く生い茂らず、わずかに余命をつないでいるのが、なんとなく物寂しい。この大路は大山街道といって、霊山大山に参詣する人の主要道路であった。両側に並ぶ百餘軒の多くは半商半農で、宿場としての名残を留めている筆者の幼児には、なお1宮の宿場には、富田屋、中島屋、高砂屋等の宿舎があって軒頭(のきがしら)の小旗が風にひらめいて、随分にぎやかを極めたものらしい。当時大山参詣の人は必ず寒川神社に詣で、神社を拝したものは大山に登山したもので、白衣導者(はくいどうしゃ)の減少、鈴の音が聞こえなくなると共に、旅舎も滅び、神社も衰退を招致するに至った、とある。ちなみに記す。一宮は大鳥居前の繁華な地で、いにしえは上町屋と称していたようである。現在(昭和3年)茅ヶ崎町に下町屋の小字が存在している所から察すると、事実らしい、とある。