重兵衛渡しの面影と江別。
重兵衛渡し跡の特徴
昭和四十六年に廃止された重兵衛渡しの歴史があります。
江別市民に親しまれた初代船夫武田重兵衛氏の名を持つ史跡です。
石狩川と千歳川が交わる江別河川防災ステーション前に位置しています。
江別河川防災ステーションにある史跡。昔この近辺の石狩川に橋が架かっていなかった時代は船着場から船で川を渡っていました。その船着場の初代船夫の名前が武田重兵衛だったことから重兵衛渡しという名前で親しまれました。重兵衛渡しは昭和四十年代まであったそうです。橋ができるまで当時の重要な交通手段でしたが水難事故も度々発生し武田重兵衛の三男仙太郎も事故で亡くなっています。昭和五年には子供達十数名が亡くなる事故も発生しておりその子供達を弔う子安観世音菩薩が近くの八葉峰寺に建てられています。
史跡「重兵衛渡し」の説明板です。
(榎本公園の続き)。江戸時代、河川交通の要衝だった対雁(津石狩場所)から数㎞上流、石狩川と千歳川の二股となる河川の間にある渡船場である。「重兵衛渡し」とは船頭である福井県からの移住者、武田重兵衛さんの名前から付いたらしい。しかし船着き場を見るなら逆サイドの「石狩川汽船」からの景色の方がいいかもしれない。そして国道12号線からは、看板の裏側しか見えず気づけない。市道をつかい裏から行くときにはヘアピンカーブに気をつけましょう(石狩川汽船に続く)
説明板より→昭和四十六年、廃止した「重兵衛渡し」は、石狩川第一原野渡船場と云い、初代の船夫「武田重兵衛」氏の名により江別市民に親しまれてきた。武田重兵衛氏は、明治二十二年、福井県より江別村に移住し、江別屯田の追給地となった第一原野の開墾のため、丸木舟で石狩川を行き来し、村民の足としても利用された。明治二十七年、市街地と一原部落の往来者の増加により、北海道庁の許可を受け、正式の「渡し」となった。明治三十五年、一原部落の運営となり、翌年の当別・新篠津からの道路開通により、大正九年に石狩大橋が完成するまで交通の要所であった。この間、明治三十二年に重兵衛の三男仙太郎他六名、昭和五年に十三名が水死した大事故があったが、江別市街と一原、美原地区とを結ぶ主要な交通路として利用されてきた。
冬は雪で行けないです。
現在は面影がなく、説明板だけが建てられています。
石狩川と千歳川が交わるところ、江別河川防災ステーションの前に看板が立っています。昭和46年までここに渡船場があったそうです。昔は主要な交通路だったのですね。
| 名前 |
重兵衛渡し跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日火水木金土] 9:00~18:30 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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12号線沿いの江別河川防災ステーションの前にあります。「史跡 重兵衛渡し」明治22年から昭和46年まで運航されてたそうです。石狩大橋の完成で終了。ステーション内には蒸気外輪船「上川丸」のレプリカが展示されていて、江別の物産が販売されています。