駒姫の悲劇を心で感じる場所。
駒姫の黒髪塚の特徴
最上義光公の娘、駒姫の悲劇を伝える供養塚です。
豊臣秀次の陰謀による悲痛な歴史が刻まれています。
15歳で斬首された駒姫の遺髪を埋葬した特別な場所です。
他の方が書かれている悲劇の駒姫の話は、本当に心が痛む 弔いに来たいと思いやっと来れた 駐車場の場所を探すのに少し迷った。幼くして京に上がって父母より早く亡くなってしまった駒姫 せめてお墓は父母のそばに置いてあげたらと思った。
案内に沿って奥まで進むと現れますが、ちょっと淋しい場所にポツンと取り残されています。
最上氏史跡2019年7月13日来訪。駒姫は、最上義光とその正室、釈妙英(大崎義直の娘)との間の次女。九戸の乱の平定の為に奥州に下向していた豊臣秀次が、東国一の美少女と名高い駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう求められた。最上義光は、駒姫がまだ11歳であり、礼節を身につけていない等の理由で断るが、それでもと秀次に求めれ、駒姫が15歳になれば側室として差し出す事になった。1591年、秀吉と淀殿の間にできた鶴松が夭逝すると、翌年秀吉は秀次に関白職を譲り、いよいよ秀次が次の天下人になると予想された。しかし、1593年、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生。秀吉が秀次に関白職を譲った事を、早計であったと後悔した可能性はあるでしょう。1595年6月末、突如秀次に謀反の嫌疑が浮上、秀吉からは拝謁も許されず高野山への蟄居を命ぜられ、7月10日には高野山に入るも、15日、秀吉から賜死を命じられ、秀次は切腹した。駒姫が京都に到着したのは、いつだろうか。京都の最上屋敷に到着し、「お伊万の方」という側室としての名前まで決まっていたようだが、実質的にまだ側室にはなっていない。秀次に会ってさえいない可能性もある。そんなまだ名目上の側室であった駒姫であったが、秀吉が秀次の家族、家臣のみならずその係累に至るまで処刑を指示、そして8月2日、駒姫も他の側室らと共に三条河原に引き立てられ、処刑された。駒姫の辞世の句は「罪を斬る 弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」駒姫の死に、深く衝撃を受けた母釈妙英は、8月14日、後を追うように亡くなった。残された最上義光は、どれほど秀吉を恨んだ事でしょうか。関ケ原の戦い(慶長出羽合戦)で、最上氏が東軍に付いたのも当然の結果だったのでしょう。義光は駒姫の死を悲しみ、駒姫の菩提を弔う為にこの専称寺を建立しました。寺の梵鐘も天下の名工と称された道仁により1606年に作成され、鐘楼も当時に建立されたものであると、現地の説明板に書かれています。駒姫のお墓は、専称寺の敷地の隅にひっそりと佇んでいます。そのお墓には、まだ新しい献花が供えられていました。
最上義光公の娘 駒姫の悲劇を今に伝える場所です。
2018年4月に訪問。・若干15歳で非情な死を遂げた駒姫の墓所・東国一の美少女と言われていたため、豊臣秀次公の耳に留まり、悲劇が起こってしまいます・父・最上義光公墓所は専称寺の奥のほうにあります。一般の方のお墓の横を通るので、礼節をわきまえて行動しましょう。
| 名前 |
駒姫の黒髪塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
023-622-5981 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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豊臣秀吉の養子であった秀次の希望で京に上がったものの、秀次謀反の陰謀の犠牲となり、わずか15歳で斬首された駒姫の遺髪を埋葬したと言われる供養塚。もし、秀吉に実の子が産まれなければ、このまま秀次が豊臣家の後継者となり、駒姫の運命、ひいては最上家の運命も大きく変わっていたのだろう。