常磐公園で出会う、北海道の偉人。
岩村通俊之像の特徴
土佐藩出身の岩村通俊が関わった史跡です。
千鳥ヶ池のそばに位置し、絶好のロケーションです。
円山公園よりもアクセスしやすいと評判です。
2026·R8.4.4 常磐公園の散策中の初訪問です。岩村通俊の像(三代目の像)と歌碑が並んで建っています(千鳥ヶ池に向かって、真ん中に"案内板",右が"岩村通俊之像",左が"岩村通俊の歌碑")。以下ほぼウィキペディア引用ですが、岩村通俊(いわむら みちとし,1840.7.8〈=天保11.6.10〉- 1915·T4.2.20)は、日本の武士、官僚、政治家。開拓官僚として赴任した北海道を調査し、北海道庁設置の必要性を政府に働き掛け、初代北海道庁長官となる(他に佐賀県令,鹿児島県令,沖縄県令,農商務大臣など)。号は"貫堂",俳号は"素水"。土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現 高知県)宿毛で生まれた通俊は、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。1869·M2年には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。開拓使の首席判官であった 島義勇 の後を受け、1871:M4年開拓判官として札幌の開発継続に着手する。区画を京都に倣い条・丁目とし、当時重要災害であった火災を減らすために草小屋の撤去に乗り出す。この時の撤去の手法はまず撤去の旨触書を発した後にわざと火をつけ火事を起こした。このためこれを「御用火事」というが、つまりは放火であるため通俊はこの時退官覚悟だったという(注:以前 収用だか立ち退きだかで"火でも着けろ"ということを言って問題になった首長がいた記憶がありますが、ホントにあったのね)。しかし、札幌の消防隊はこの時設置され、以後は火災が減ったという。この間、開拓大判官に昇り、増えてきた移住者や土工のために遊郭の設置に乗り出す。部下の 薄井龍之に歓楽地を作らせ、名を一字とって「薄野遊郭」とする。すなわち後の「すすきの」である(由来には"周りが ススキだらけなので ススキノ"という異説もある)。1874·M6.7月 佐賀県権令に任命され、同地で治績を挙げる。中央に召還され工部省出仕となることが決まると後任の佐賀県権令に弟の岩村高俊を推挙し、これが許される。1876·M9年 山口地方裁判所長を経て1877·M10年には西南戦争が起こり、通俊は鹿児島県令として赴任した。通俊はこの時、敵将である西郷隆盛の遺体を軍部の了解を得て鹿児島浄光明寺に丁重に葬ったという。鹿児島県令としても治績を挙げた通俊は元老院議官·会計検査院長に昇り、1882·M15年には沖縄県令となる。2年間の沖縄県令の後 司法大輔となり、北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。1885·M18年には旭川の上川盆地を近文山から永山武四郎らとともに国見(=天皇や地方の長が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の生活状態を望み見ること)し、直後には近文山山頂に「国見の碑」(旭川市指定文化財)を建て,上川の可能性を見いだした人物です。これが認められ、1886·M19年に北海道庁が設置されることとなり、通俊が初代長官に任命される。長官として北海道開拓の任に当たり、旭川市に東京・京都に継ぐ「北京(北の京)」設置を構想した(先の 国見を踏まえ、この旭川に「北京を置く議」を政府に提出)。1888年(明治21年)、長官を永山武四郎に交代し元老院議官に就任する。農商務次官を経て1889年(明治22年)12月24日、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。大臣退任後は宮中顧問官・貴族院議員・御料局長・錦鶏間祗候を歴任する。1896·M29.6.5に功により男爵を叙爵し華族に列せられる。翌1897·M30.12.28に勲一等瑞宝章を受章する。1900·M33年 朝鮮京釜鉄道会社が設立され常務理事に就任1904·M37.6.23、勲一等旭日大綬章を受章。1915·T4.2.20 東京市小石川丸山町(現在の東京都文京区千石3丁目)の自宅で薨去。享年76。通俊の功績を称え 旭川市の北海道神宮末社開拓神社·上川神社に祀られ、旭川市常磐公園,札幌市大通公園,札幌市円山公園に銅像が建立されている。高知県宿毛市の旧岩村邸には記念碑が設置。こちらの「岩村通俊之像」は数々の偉業を讃えて、最初は1938·S13.11.12に鉄製の像を建立し除幕式を挙行(初代の像:後に1943·S18.7.10 戦時金属類回収による岩村卿銅像供出式挙行の上 供出,台座のみが残される)、1951·S26年に現在の道立美術館裏手に再びこの像が建てられ(二代目の像:初代の像が鉄製で供出したことからか二代目はコンクリート製,中野 滋 制作)、その後二代目の像が経年劣化のため 三代目の像として1990·H2年.9.17(除幕式)には今の場所である千鳥ヶ池中島近くに三たび 建立されました(ブロンズ製,田村史郎 制作,佐藤忠良 監修)。現在3体目とは知りませんでした!一方「岩村通俊 歌碑」について、碑文には「世の中に 涼しきものは 上川の 雪の上に照る 夏の夜の月 通俊 岩村通俊御遺墨摸寫」とあります。"旭川文学碑マップ"では1938·S13.11.12建立とあります。(1938·S13.11.12は初代の像の除幕式の日ではありますが、個人的にはこの歌碑が90年の経年とまでは思えないのでもう少し深掘りしたいところです)
土佐藩出身で鹿児島県令や初代北海道庁長官を務めた岩村通俊。北海道開拓にあたり旭川に東京、京都に次ぐ「北京」を設置する構想をした。千鳥ヶ池の畔に建てられたこの銅像の隣には岩村通俊の句碑も建てられています。
土佐藩の藩士で鹿児島県令、初代北海道庁長官などを歴任。明治政府でも大臣職を務め、後に華族に列せられた人物。土佐国の若い武士達は、幕末の激動に巻き込まれ多くが若くして命を落としましたが、この方はかなりの出世を果たしたようです。坂本龍馬とも交流のあった幕末4大人斬りの一人岡田以蔵の下で剣術を学んだとのこと。同年代なら竜馬との親交もあったのかもしれません。
常磐公園の千鳥ヶ池のほとりに建っています。脇には歌碑もあります。初代の北海道庁長官を務めた人です。
円山公園より場所がずっと分かり易い。
| 名前 |
岩村通俊之像 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
北海道の偉人。北海道庁初代長官。土佐藩出身で戊辰戦争に参戦。新政府内では様々な役に就き、初代北海道庁長官に就任すると上川開拓に着手。上川道路(囚人道路)の開削や植民地の選定等、旭川の基礎造りに功績を遺した。