古代豪族の子孫、国乳別皇子を祀る古墳。
烏帽子塚古墳の特徴
弓将軍と呼ばれる国乳別皇子の墓があります。
弓頭神社御祭神を祀る重要な史跡です。
烏帽子塚は古墳であり、歴史的な価値があります。
資源物ゴミ置き場に車を停めさせて頂き、住宅地を抜けた先に有りました。面影は有りませんが、相当大きな古墳だったようです。以下引用させて頂きました。景行天皇の第3皇子「国乳別命(くにちわけのみこと)」が水沼君(みぬまのきみ)としてこの地を治めておりました。神功皇后の三韓征伐の折に「弓の頭(ゆみのかしら)」に任命されて新羅征伐に赴きます。「弓の頭」とは「大将」のことで、軍隊の大将(将軍)を任命されたということのようです。水沼の君は、帰国してからしばらくするとこの地で亡くなります。その遺体を埋葬した御廟(お墓)がここ「烏帽子塚古墳」だそうです。別名を「弓頭神社御廟塚古墳」といいます。
弓頭神社御祭神の國乳別皇子を祀るという古墳。であったものが宅地になっているので、先に大善寺の御塚古墳を見ておかないとイメージしにくい。御塚古墳より広大な前方後円墳、ということは今の弓頭神社も付属品か入口程度だったかも知れない。現在残っているのは、塚の一部にセメント被せた、防火水槽の如き祭壇にチシャの木一鉢。解りにくい入口を見つけて入っても見るべきものがない、というか水槽擬きの一角以外は住宅の床下になっている訳で。説明に曰く。…景行天皇第三皇子の国乳別命(くにちわけのみこと)が水沼の君として当地を治められ、後に大和朝廷の三韓出兵の折、弓の頭(かしら)<大将>に任命された。帰国後亡くなられ、御遺体を埋葬した御廟と伝えられ、別名「弓頭神社御廟塚」という。「御陵墓調」に東西258m、南北100m、周囲712m(原本は尺間法で表記)と記され、ことに周囲周溝は大善寺の御塚古墳周溝の約2倍である。しかし昔から次第に開かれたために当時の面影はないが、烏帽子塚の名称から前方後円墳であったと推定される。
国乳別皇子の墓と云われています。古墳には住宅が迫り、前方後円墳の形がわずかに残っているだけです。後円部にあるチシャの木が目印で、そばに白い碑があります。ここにはかつて高三潴廟院といわれる社殿があったと伝えられています。
弓将軍と呼ばれた国乳別皇子の墓とされる古墳です。民間の庭先を歩いた先にあります。
弓頭神社祭神の国乳別皇子の御墓とされる烏帽子塚(弓頭神社御廟塚)はこちらとなる。H30.3.21時点で高良玉垂命の御墓とされる高良御廟塚とグーグルマップ上の表記が間違えているため注意が必要。マップ頼りで訪問した為こちらの本当の烏帽子塚を見逃してしまった。民家の庭先を通らないと来れない場所らしい。
| 名前 |
烏帽子塚古墳 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
景行天皇を父に、日本武尊(ヤマトタケル)を兄に持つ国乳別皇子(くにちわけのみこ)が神功皇后の三韓征伐帰国後、古代豪族水沼氏の祖として三潴の地を治められた後、この古墳に葬られたとの伝承があるようです。宅地開発により消滅していますが全長約258Мと、奈良の箸墓古墳(約278М)に匹敵するほどのサイズで驚きです。近くの弓頭神社から道路を隔てた先に案内標識があり、まっすぐ突っ切った先の案内板→黒塗り壁の建物の近くに行き先を表す赤い矢印の案内標識→民家の路地を抜けた先に遺跡標識が立てられています。なお、この付近一帯にはおびただしい数の土器片が散乱していますが、この古墳一帯にあった大規模環壕集落跡の高三潴遺跡(三潴小学校前に説明板があります)の一角に建てられてるのかと思います。道の駅・みづまの駅に車を停めて国乳別皇子を祀る弓頭神社も訪問できます。この道の駅名物「のり弁」も、とても美味しくてオススメですw