淡河弾正の歴史、感じる場所。
淡河弾正の墓の特徴
淡河弾正の墓は、歴史的な価値が高い貴重なスポットです。
三木城主別所長治との関係を示す歴史の深い場所です。
戦死した侍大将の慰霊碑があることで心に響く場所です。
谷大膳の墓と比べると新しい。
墓の無い人生は儚い。
三木城主別所長治と婚姻関係にあり同盟を結んでいた淡河弾正の墓と主君の為に戦い戦死した侍大将の慰霊碑があります。淡河城主淡河弾正忠定範については現地に詳しい説明が現代語で書かれているので読むことが出来ます。兵糧を城に届けたいと想いで秀吉軍と激突しますが善戦及ばず、この地で割腹してみごとな最後をとげたとされ墓がここに建てられたようです。知らなければ三木城の籠城戦しか見えていない戦いがここにもあったと解る場所です。
| 名前 |
淡河弾正の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
淡河城主 淡河弾正忠定範は、三木城主 別所長治の義理の伯父にあたり、別所氏を支援しました。淡河弾正忠定範は智勇兼備の優れた武将であったと云われています。現神戸市の花隈城、丹上山城と淡河城を繋いで、三木城への兵糧等物資の補給輸送ルートの役割を担っていました。天正7年5月、丹上山城は秀吉軍の奇襲を受けて落城しました。羽柴秀吉は、残る淡河城の四方廻りに、天正寺城等付城を築き、取り囲みました。そして、秀吉の弟 羽柴秀長の率いる軍勢が淡河城を攻めましたが、淡河弾正は逆にこれを撃ち破り、敗走させました。この戦いが、三木合戦における別所方の唯一の戦勝でありました。その後、自ら淡河城を焼き払った弾正は、三木城に入り、別所長治と運命を共にすることになりました。天正7年9月9日夜半、三木城への兵糧を明石から陸路で運んできた毛利の援軍と雑賀衆は、三木城包囲網を破るため、秀吉軍の豪将 谷大膳亮衛好の守護する平田山砦に夜襲をかけました。同時に、三木城からも別所軍3千が平田山砦を攻撃しました。別所軍随一の智将と云われた淡河弾正忠定範も、これに参戦しました。敵将 谷大膳を撃ち取るも、平井山本陣の秀吉軍本隊及び廻りの各付城からの援軍が参戦し、形勢は逆転し、秀吉軍の大勝に終わりました。別所軍は敗走し、この大村平田合戦で大将格数十名を失うことに。淡河弾正は、秀吉軍との圧倒的な兵力の差を悲観し、この八幡森付近で自害して果てたと云われています。三木市加佐にある八幡森史跡公園に、淡河弾正忠定範の慰霊碑があります。