平等院修復の歴史を体感。
浄土院の特徴
15世紀後半に栄久上人が開創した寺院です。
重要文化財養林庵書院が浄土院内に存在します。
本堂前の庭から鳳凰堂の背面を眺めることができます。
【浄土院】浄土原は平等にの塔事で、落士宗の栄久上人が、明応年間(十五世紀後半)に平等院修復の為に開創した寺と伝わり、「都名所図絵」には「平等院奥院」「浄閣」などと示されている。江戸時代には養林庵や知学庵など浄土院の子が鳳凰堂西南を中心に多数存した。浄土際には平等院に関係する多くの文化財が残されている。そのうち、養林庵書院(重要文化財)は桃山城の遺構と伝えられ、障壁画は、床の間の図が雪景山水図、襖は離に梅図、天袋は花井図で構成され、作者は、その作風から狩野山雪と考えられ、京狩野の代表的作家の特価を著した作品としていその価値は極めて高い。また京都府指定文化財として平等院修造勧進状一巻・平等院旧起二巻、細川三斎作庭と伝わる養林庵書院庭園があり、宇治市指定文化財として、木道南釈天立像(平安時代)、木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期~南北朝時代)、和漢朗詠集巻下断簡(平等院切」(平安時代末期)がある。帝釈天立像は、やさしい着衣にやや重い感じを付加され、程よい量感のなかで、少年相の清純な感じの相貌や、浅く柔らかな衣歓表現に、十世紀来から十一世総前半にかけて活躍した、仏師康尚(定朝の師)の特色がはっきりと滲みでている。阿弥陀如来立像は、ヒノキ材を用いた寄木造りの堂々たる大作の像で、両手首先から台座を含めて当初のまま残っている。うつむきぎみの頭部、生々しい感触を持つ指先などに当代の特色がよく示されている。和漢郎詠集巻下断筒は巻下雑部のうち、禁中・古京の全文十五行文である。古来筆者を源頼政(一一〇五~一一八〇)と伝え、平等院切という名称も頼政との関係で付されたと思われる。本稿は平等院切の中でも、全十五行文の断簡として大きく、古筆研究はもとより、国文研究などの資料としても貴重である。大魯院 關香奈玉寶函獅子区また、古図によると平等山内で最も古い書として大喜院(非公開)があり、蘭香斎玉の獅子図四面や後醍謝天皇が三種の神器を納め平等院に返留したと伝えられる徴座所などが残されている。
平等院の塔頭の一つです。
11月4日土曜日盆栽や庭木を眺め、本堂にそっと手を合わせました。その背中には鳳凰堂の背面が…
国宝の中を見せてもらいました。保存の為、触らないでと注意されての拝観でしたが踏みしてめているその場所も国宝かと思うと緊張しました。良い体験をさせてもらい心が洗われる気持ちにもなりました。
⭐️平等院の塔頭(たっちゅう)、15世紀後半(明応年間)に平等院修復のために浄土宗の栄久上人が開創した寺😄⭐️伏見城からの移築とされる国の重要文化財である「養林庵書院」は浄土院内に存在、本堂左手の「大書院(非公開)」は平等院内最古の書院、境内東側に禅宗様式「羅漢堂(非公開)」は江戸時代の寛永17年(1640年)の建造と棟札で明確、本堂前の庭からは鳳凰堂の背面が眺められます👀
平等院塔頭の一つ。荒廃した平等院を復興するため建てられた浄土宗の寺院である。こちら所蔵の文化財もミュージアムで公開されている。
立派なお堂です。南門から入ってすぐです。
明応年間(15世紀後半)栄久上人が此の寺に入られ、荒廃した平等院の修復にあたられたとの事ですよね。
平等院を管理している塔頭の一つで浄土宗の寺院です。隣の最勝院より以前から荒廃した平等院を世話してきた寺院です。源頼政公の家臣で後に通園との名で知られる初代の古川右内の墓が敷地内に有ります。現在では宇治橋の袂で同じ通園の名で茶団子を販売されていたりする地元の名家の方で特に千利休と重なる秀吉の時代の話などが良くテレビで目にします。江戸時代に廃城となった伏見城の遺構とされる養林庵書院(重要文化財)が知られていますが現在は非公開で塀越しに屋根だけが見えます。
| 名前 |
浄土院 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0774-21-3052 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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平等院のなかにある浄土宗の寺院で栄久上人が明応年間十五世紀後半に建てられたそうです。阿弥陀如来像や救世船乗観音などが見られます。