歴史感じる船橋の念仏堂。
海神念佛堂の特徴
歴史を感じる木造阿弥陀如来立像があります。
船橋駅から徒歩15分の便利な立地です。
念仏堂周辺には観音堂や大師堂も併設されています。
一説には室町の頃からあるお寺で、こちらの阿弥陀如来像は実は今はもうない海神山と海神小の間にあったと思われる「善光寺」というお寺のものでした。善光寺は国府台合戦での里見軍の撤退線の最中に焼失してしまい、一時は松戸のお寺に預かられましたが、それを念仏堂さんが引き取ったようです。お寺の入り口にある道標は北側の本町通りと行徳道の分岐(太鼓橋のところ)にあったのをこの場所に移動したとのこと。今は線路で分断されていますが、昔は念仏堂前のくねくね道は行徳道として夏見台ので前まで続いていました。
お寺や寺院でもなく住職は居ませんが、かなり歴史のあるお堂です。かなり歴史も上がる、墓参り以外でも立ち寄りたいところです。
木造阿弥陀如来立像や観音像を見たかったです。
かなり、古いどひょうのちかくに念仏どうがあります決めれた日に見られる船橋市の文化財になっている仏像、あと昔の幕末の大きな戦でなくなった人たちのお墓もありますくわしくは、写真を参考にしてください。
船橋駅から徒歩15分位、念仏堂の境内には他に観音堂や大師堂もあります。また墓地内には、戊辰戦争で戦死した福岡藩士らの墓があります。それぞれ掲示板が設置されていますので下記に記します。木造阿弥陀如来立像市指定文化財 この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に慶安4(1651)年の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられています。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐次右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって、浄土宗の寺院の形を整えたものと思われます。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって、現在に至っています。 堂内に安置されている阿弥陀如来立像は寄木造、平安時代末期前後(12世紀頃)の作であります。端麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師の手になるものと考えられます。縁起によればこの仏像は当地の善光寺という寺にありましたが、寺が廃絶し、一時小金の東漸寺に移されたものを、高麗屋佐次右衛門がこの堂に納めたといわれています。 墓地内には、慶応4(1868)年の戊辰戦争の際に海神で戦死した福岡藩士らの墓もあります。 船橋市教育委員会 観音堂の由来 この観音堂は、元禄十四年(一七○一)に江戸神田鍋町の富商である高麗屋佐次右衛門が建立したものである。 堂内には、同じく佐次右衛門が奉納した三十三躰の観音像が安置されている。これは佐次右衛門が前年の元禄十三年(一七○○)九月に死去した父の他、数人の菩提を弔うために寄進したものである。 中央の一躰は厨子に収められてやや大きく、あとの三十二躰は小像で左右に二段に並んでいる。この群像は「三十三観音」ではなく、西国三十三番札所の観音像を彫ったものとされている。今では毎年八月十日に開帳し、供養をしている。 なお伝説では、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、加藤清正に連行された者の子孫だという。 奉納者・高麗屋と海神念仏堂との結びつきは、次のようにいわれている。「元禄年間、新開の行徳道の傍らにある念仏堂に、念仏に明け暮れる了故房という修行者がいた。その念仏はすばらしく、往来の人が感涙をもよおすほどであった。ある日、ここを通った高麗屋も念仏を聞いて感激のあまり、宗派まで変えて了故房に帰依し、本堂を改築寄進し、さらに観音堂を建立寄進して、先祖代々の位牌まで納めて信心した。」 海神念仏堂福岡藩小室彌四郎と従卒の墳墓 戊辰戦争はこの海神でも行われました。それは慶応四年(一八六八年・戊辰の年)閏四月三日午後二時のことでした。行徳街道を進軍してきた新政府軍・福岡藩兵と中山法華経寺から大神宮に向かっていた旧幕府軍との間で、激しい銃撃戦が始まりました。 暫くして、ここから南へ少し行った水田の中で、福岡藩の小室彌四郎と旧幕府軍の江原鋳三郎の格闘が行われました。小室は江原を組み伏せ今にも斬ろうとしたとき、江原の部下の古川善助と他二名が駆けつけ、逆に小室は斬殺されてしまいました。 隊長の矢野安太夫は小室の死を悼み、ここに葬り小碑を建てましたが、千葉県は殉国の志を哀れみ、明治十九年三月にこの墓碑を建立しました。隣は従卒三名の墓碑です。 現在海神念仏堂では毎年八月十日に殉国者の供養を行っています。 海神念仏堂。
| 名前 |
海神念佛堂 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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【船橋市 お寺巡礼】◉寺社 海神念佛堂 📍千葉県船橋市浄土宗の寺院として形が整えられていますが念仏を唱えるお堂となっている「念仏堂」さんへ参拝しました。11時7分に参拝で他の参拝者はいませんでしたのでゆっくり参拝する事ができました。◉お寺★念佛堂☆寺号 念佛堂☆縁起この念佛堂の開基は不明であるが、墓地に慶安4年(1651)の墓があることから創建年代はかなり古いと考えられています。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐次右衛門という者が観音堂を寄進し、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって浄土宗の形を整えたものと思われます。🍙境内案内板☆観音堂この観音堂は元禄14年(1701)に江戸神田鍋町の富商である高麗屋佐次右衛門が建立寄進したものである。堂内には同じく佐次右衛門が奉納した三十三躰の観音像が安置されていて中央の1躰は厨子に収められてやや大きく、あとの32躰は小像で左右に2段で収められている。🍙境内案内板☆木造阿弥陀如来立像 市指定有形文化財寄木造、平安時代末期前後(12世紀頃)の作であり淡麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師の手によるものと考えられています。元々は当地にあった善光寺という寺にあったのですが寺が廃絶し、一時期松戸市小金にある東漸寺に移されたものを高麗屋佐次右衛門がこのお堂に納めたと言われています。🍙境内案内板☆天道念仏太陽(てんとう)を拝み五穀豊穣を゙祈願する祀りが毎年3月8日近くの日曜日に行われているようで、境内には太陽を模した華やかな祭壇が設けられ大日如来像を゙崇める太陽信仰と出羽三山信仰が結びついた祀りのようです。☆葛飾大師堂 68番◉感想国道14号線と行徳道(今井街道)が交差する場所に「海神念佛堂」はあり、周りは住宅街となっています。本来お寺であれば本堂があって御本尊が祀られているのですが「海神念佛堂」は念佛堂・観音堂・葛飾大師堂とお堂があるのみとなっており、住職もいないのでお墓を有する檀家の方々が管理されているようです。観音堂脇には市内最古の道標「元禄7年銘 道標」や、境内のお墓の1角には戊辰戦争・海神の戦いで亡くなった武士の墓「福岡藩 小室彌四郎と従卒の墳墓」と「脱走方(旧幕府軍)と薩摩兵(新政府軍)の墓碑」など歴史の史実が多くあり、それぞれを探究する事ができました。ありがとうございました。◉住所千葉県船橋市海神1-17-16◉アクセス京成電鉄京成本線/海神駅出口から距離833m、徒歩13分位。