七福神巡りで福が舞う、弁天様。
弁天院(朝日弁財天)の特徴
下谷七福神の一つ、弁天様が祀られています。
児童公園が併設され、子供の憩いの場です。
七つの難を滅し、七つの福を生む巡拝が魅力です。
曹洞宗のお寺。下谷七福神めぐり(弁財天様)で参拝。お堂の中で御開帳、授与所となっていました。弁財天様とお釈迦様の御朱印を拝受いたしました。隣地は公園です。2025年1月6日訪問。
最寄り駅 地下鉄日比谷線入谷駅より徒歩10分拝観料は無料 トイレ無山号 \t朝日山宗派\t 曹洞宗本尊 ー入谷七福神弁財天(べんざいてん)弁天院は、寛永初年に備中松山城主の水谷伊勢守が上野不忍池に弁天堂を創建すると同時にその下屋敷であった水の谷の池にも弁財天祠を祀ったことを開基とし、第二次世界大戦後宗教法人として成立したといいます。との事です道路沿いの公園奥にあります弁財天なので池もしっかりとありお隣に観音像もあります狛犬にもマスクがかけられかわいい。
下谷七福神の 弁天 担当。住宅地の中にあり下谷七福神巡りの他の場所に比べるとかなり地味めなんですが、そこが味です。その庶民的なカンジがホッとします。豪華じゃなくてもこういうのも良いですね。
昔々、竜泉寺町に水の谷の原 (みずのやのはら) と呼ばれていた場所があった。そこには、近くで万屋を営んでいた樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる弁天池という8,000㎡もある、とても々深くて大きな池があったんだとか。あちこちある掲示物を見ると、備中松山の初代藩主水谷勝隆は、上野の不忍池の中之島 (弁天島) に弁天堂を創建した当時、2万坪の広さがあった自身の江戸下屋敷の池にも同時に弁財天祠を祀り、これを朝日弁財天と称し両者は姉妹弁財天と呼んでいた。水の谷の池は、琵琶型に造られた約160㎡の中之島へ木橋が架けられ、松柏の大樹が茂る中に本堂を仰ぎ見る景観は荘厳を極めていたという。池には菱や蓮などが美しく浮かび、池畔には廓の寮など瀟洒 (しょうしゃ) な別荘が点在し文人墨客の往来も激しかったとか。勝隆は土木事業に優秀な人材を抱えていたらしく外にも生涯様々な事業を行っていたそうだ。大正12年 (1923年) に起きた関東大震災で崩落した浅草凌雲閣の瓦礫の処分場所に困った東京市が目を付けたのがこの弁天池だったとか。池の中に住む魚類や震災で死んだ馬などと共に浅草凌雲閣の瓦礫もこの池の中へ放り込まれたという。今は昔の弁天池の名残を残す小さな池が朝日弁天院の前にあるのみだが、面白いと思うのは、現在弁天池のあった跡にはかまぼこ型のモダンなビル「東京土建」の台東支部会館が建っている。まさかこの地がかつて凌雲閣の多量な瓦礫を運んできた土方衆の館になったとはとても皮肉な巡り合わせだ!
お詣りした日:令和4年4月30日公園と同居しているこじんまりとした弁天様です。静かに、ゆったり、子供の遊ぶ声を聞きながらお詣りしました。御朱印は、いただける旨、社務所に案内が貼ってありましたが、初めてお詣りにきた身にとって、土地勘がなく、法昌寺さんがどこになるか判らないのであきらめました。簡単な、経路が書いてあれば、向かう勇気が出たと思います。
下谷七福神の一つ弁天様を奉る神社東京大空襲で60坪もあった弁天池が埋め立てられて、いまは公園になってしまってますが、近くの子供の憩いの場流石は弁天様ですね🎵
昔々のこと。この地の弁天池はたいへん広く且つその深さは底知れずと云われていた。これがためこの池にて命を落とされた方が少なくなかったと伝えられている。関東大震災のときは東京市の要請により災害の焼土をもって埋め立てられたためここに生息していた多くの魚類などが生き埋めとなり、また、焼土の運搬の馬までも犠牲となるなど多くの人々の情を寄せられていた。当時の地主はいち早く境内に卒燈婆を建て施飢餓供養を図ってた。その後有志がこれを継承し昭和三十一年に供養燈として改建し更に熱意を傾けつつ今日に至っている。
くっついている小さな公園でドラマの撮影してました。
御朱印巡りで参拝公園の横にあるというより、公園の中にある神社。社務所の前に人工池があって金魚が泳いでいましたーコケで水の色が緑でした御朱印は書置で2種類ありました。
| 名前 |
弁天院(朝日弁財天) |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-5246-1111 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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入谷七福神で弁天様をお祀りします。もとは大きな池に囲まれていましたが関東大震災後、池はほとんど埋め立てられたので小さな池があるだけです。不忍池の弁財天と対になっていて、東にあるこちらが「朝日」、西にある不忍池は「夕日弁天」と言われています。