吉田松陰の夢に触れる散策。
踏海の朝の特徴
踏海の朝は弁天島先端の公園に位置する銅像です。
吉田松陰と金子重輔が密航を企てた歴史的スポットです。
地元の方々が集まる暖かい日には賑わいます。
踏海の朝に訪れた。海はまだ低い光の中にあり、波は規則もなく寄せては崩れ、また形を失っていった。下田の海岸には観光地らしい華やぎはなく、むしろ、長い時間の堆積だけが静かに残っているように思えた。弁天島の前に立つと、吉田松陰がこの場所に立ったという事実だけが、ひどく冷静な重みをもって迫ってくる。嘉永七年三月、松陰と金子重輔は黒船への密航を企て、この下田に潜伏した。松陰は皮膚病の治療を理由に蓮台寺温泉へ通いながら、宿に身を隠し、黒船の動きを探った。彼の行動には激情の色はなく、むしろ、目的のために必要な手順を淡々と積み重ねていくような、奇妙な静けさがあった。三月二十五日の夜、二人は稲生沢川の河口から小舟を出した。しかし海は荒れ、黒船には近づけなかった。翌二十七日の夜、再び弁天島の影から舟を出し、ようやく旗艦ポーハタン号にたどり着いた。松陰は渡航を願い出たが、条約締結直後の事情から拒絶され、二人は福浦海岸へ送り返された。松陰は逃げることなく、名主宅に赴いて自首した。その後の処遇が彼の人生を大きく変え、やがて松下村塾へとつながっていくが、この下田での数日間は、歴史の大きな流れの中ではごく小さな点にすぎない。それでも、彼が舟を漕ぎ出した海は、今も変わらず目の前に広がっている。朝の海を眺めていると、松陰の企てが成功することもなく、しかし無意味でもなかったという、その奇妙な均衡だけが、静かに胸に残った。
ここは下田の町を対岸に見る。つまり、発見されやすい場所から,黒船乗船を試み,ここより市街より離れ外人には安全な,当時の外人居留地,現浄水場兼廃棄物貯蔵場へ追い返されました。この公園は見晴らし良好,ベンチもあり,他の場所より寛げます。
心からきてよかったです。吉田松陰の勇ましさや若さを感じられる場所は限られていますが、まさにここがそうかと思います。金子重之輔の存在もたしかに感じられ、涙がこみ上げてきました。
心からきてよかったです。吉田松陰の勇ましさや若さを感じられる場所は限られていますが、まさにここがそうかと思います。金子重之輔の存在もたしかに感じられ、涙がこみ上げてきました。
幕末の夢日本の将来を憂い 吉田松陰先生は、 金子重輔青年 とともに 小舟で 密航を企てる勇気 たる也 言葉に言い表すことができない ほどの ことだと思います。
弁天島公園を散策していると「踏海の朝」というタイトルの銅像と解説板があります それっぽいポーズで佇む吉田松陰と金子重輔の像は良い感じに雰囲気が出てました。
芝生があり、ちょっとした散歩に抜群。ワンちゃんの落とし物、飼い主さんのかな?トイレもあるのに歴史の舞台を保存し、守るのは後世の責務。
弁天島の西側に建設された公園兼防波堤の先端に建つ銅像です。吉田松陰先生と金子重輔の銅像で、題名は「踏海の朝」です。前日、稲生沢川河口から小舟を漕ぎ出した二人ですが、慣れない小船で目指す黒船には辿りつけず、この弁天島に押し戻されるようにたどり着きます。何とか近くの神社の祠で一夜を過ごします。この地で上陸中の米国人に渡米嘆願の手紙を渡せた二人ですが、連絡もなく、この地から再度小舟で黒船へと漕ぎだします。日本の国防のためには、国禁を犯してでも外国の探索に海を渡るべきであると踏海を決意した吉田松陰先生ですが、たどり着いた黒船には乗り込むことができず、下田に戻ることとなります。また、下田に戻った後、自首した吉田松陰先生が拘禁された場所には碑が残されています。踏海を決意したのが嘉永七年(1854)、吉田松陰先生は26歳、そして、安政六年(1859)には、安政の大獄によりその命を落とされています。また、一緒に船を漕ぎだした金子重輔は、岩倉獄で翌年病没してしまいます。
暖かい日は地元の方が集います。大切な場所。
| 名前 |
踏海の朝 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0558-22-1531 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 8:30~17:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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ここから、吉田松陰が小舟を出して黒船に乗り込もうとしたと言われている。同じ湾内に戻ってきた場所もありますが、こちらの方が整備されている。