多古藩陣屋の石垣探訪。
多古藩陣屋跡の特徴
陣屋の石垣や石碑が残る歴史的なスポットです。
多古町商工会の駐車場から徒歩3分の立地が便利です。
痕跡が見られ、昔の面影を感じさせる場所です。
多古藩陣屋は、主として現在の多古第小学校校庭(多古町多古二五四〇-1) に所在していた。標高は一五メートルほどである。江戸時代の多古藩庁が置かれた陣屋は、行政・居住のための御殿・長屋、倉庫、 稲荷社等の建物が置かれ、馬場も備わっていた。面積は邸地八〇〇坪、山地(森) 五〇〇坪、囚獄囲地(牢獄、番小屋等) 一〇〇坪であった。周囲より小高い場所に築かれ、その敷地は板塀や法面の石垣で囲われていた。陣屋下の南北にのびる下馬通り沿いに、表門、中門、裏門が並び、石垣下には堀が築かれ、表門前には朱塗りの橋が架かっていたと伝わる。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷奥の池(多古第一小学校正門前付近)に続いていた。陣屋は、明治になって多古県庁舎に使用され、多古県廃止後の明治六年に競売に 付された。なかでも御殿は明治八年、多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれた。 現在は多古第小学校の敷地(校庭の一部)となり、当時の遺構は、陣屋前面に築かれていた石垣の一部が天神社の裏に残るだけである。多古藩の来歴については、天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入封に伴い、 その家臣保科正光が、下総国多古に一万石の領地を与えられ、信濃高遠藩移封まで の約十年間多古藩主を務めたのが始まりである。その後、廃藩となっていた多古藩は慶長十三年(一六〇八)、加賀野々市から入封した土方雄久によって立藩されるも、元和八年(一六二二)に廃藩となる。やがて、寛永十二年(一六三五)、松平(久松) 勝義が駿河国から領主として入封し、正徳三年(一七一三)、松平勝以が一万二千石の大名となり、多古藩が再び立藩される。こうして、明治維新を経て廃藩になるまでの二百三十年余り、松平氏がこの地を治めた。【現地案内板より抜粋】天神社裏の石垣のみが遺構との事ですが、陣屋跡とは大体この位と思って見てみると、雰囲気は感じられる気がします。
トイレは真新しく綺麗です。遺構はどこにあるのかわかりませんでした。
何となくの痕跡は見られます。
仕事で多古町商工会の駐車場から3分の所にありました。小学校の裏口の一部分を利用した赤い神社が目印です。「陣屋跡」の小さな看板を見落とすと、赤い神社しかみえません。アルミ製の説明書きが唯一の便りです。一通り読むと、多古町の変遷がうかがい知ることができます。そう思い、ゆるい坂道から見ると、昔の宿場町の雰囲気があります。何か町の歴史を継承する文物があるといいと思います。石垣の一部分だけではさみしいです。
| 名前 |
多古藩陣屋跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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陣屋の石垣が遺るほかに石碑のようなものがあります。