古代を感じる、1.8mの石棒。
石神社(せきじんじゃ)(神保原)の特徴
御神体は全長約1.8mの石棒で歴史を感じられます。
車椅子対応の参拝が可能で誰でも利用しやすい環境です。
新鮮な水が流れる手水と狛犬が境内で出迎えてくれます。
当社は、持統天皇がアマテル大神をアマテラス女神に改変し、瀬織津姫から激しい怒りを買う前の、本来の太陽神夫婦を隠し祀っている神社。改変前の痕跡を残す神社は、明治政府の厳しい指導によって、祭神変更を余儀なくされたり、末社あるいは合祀に追いやられた。その時に、八十禍津日、神直毘神・大直毘神、高皇産霊神・神皇産霊神、伊弉諾・伊弉冉、淤加美神、龗神、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、水神、市杵嶋姫、比咩神、弁天、不動明王などに仮託して神名を隠した神社は多い。これらの祭神が唐突に主祭神に祀られている神社は、日本の正統な神を祀っている可能性が高い。当社の宮司・神職は、兼務のために常駐できずにいるが、神様は確と坐すので、是非とも大切に参拝していただきたい。以下は境内の由緒書。「石神社 せきじんじゃ石神社の祭神は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、大己貴命 (おおなむちのみこと)、少彦名命 (すくなひこなのみこと)である。創立については不詳であるが、古くから石神村の鎮守で別当照蓮寺持であったが、明治初期に神職の受持となったという。御神体は全長六尺ほどの石棒である。一般にこのような石棒は、縄文時代中期に関東、中部地方を中心に発達した信仰物と推定されている。この石神社は昔は石神の日本惣社であったと伝えられ、旧村名石神もこの石棒から名付けられたものという。現在、奥の宮に奉安されているが、二ヶ所にひびがはいっているため鉄棒で固定されている。また、当社には、元禄十六年(一七◯三)九月の社再建のときの棟札が保存されている。現社殿は、昭和四十五年に改築されたものである。昭和六十一年三月埼玉県上里町」
御神体は烏川から引き上げた縄文時代の長さ約1.8mの石棒なのだとか…。広々とした境内の北側にRC造(昭和末期に建造した入母屋造り)の社殿が南向きに鎮座。本殿は神明造りで、側面はコンクリート壁なので、中は分からない。広い明け透けな境内には、ムクの大木が何本も聳え、屋台蔵には、彫刻の見事な屋台が収まっている。2025/11/28
サイクリングの途中で一休みしました。境内も広く狛犬がなかなかいいですよ。
御神体は全長6尺(約1.8m)の石棒、昔は石神社の日本総社だったらしいとか。御神体が石棒というのは古い信仰の感じですね、環境変化や病魔の中で生きるのが精一杯だった時代を感じます。祈祷の受付電話番号の表示はありましたが、御守り授与所等はありません。
旧村社。主祭神:高皇産霊神(たかみむすび)、神皇産霊神(かみむすび)。創建:鎌倉時代相当。御由緒書きに:当地は中世の石神郷と考えられる。『風土記稿』では、烏川から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名と伝える。全国の石神の総社とされ、日本総社石神大明神と称す。元弘三年(1333年)に新田義貞が上州より鎌倉に攻め上る際、戦勝を祈願し、以来この森を「勝の森」と称するようになったという。また、天正十年(1582年)に北条氏邦・氏直と滝川一益が戦った神流川合戦の際、氏直が参詣して戦勝祈願したとも伝えられる。とあります。(石神社の御神体の石棒は上里町指定文化財)境内社の富士浅間神社には富士塚が祀られています。神社と言えば鎮守の森、閑静な住宅街に、いや、道を隔てて斜め西側は神保原小学校、元気な声が聞こえてきます。いつ行っても手水が流れていて、気持ち良く参拝出来ました。令和2年、社号標に埋め込まれたセメントが除去され、「指定村社 石神社」の文字が復活。(明治維新以降に制定された近代社格制度だが、第二次世界大戦後に廃止)1946年、GHQの神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に、その干渉を恐れ、石の社号標の社格が刻まれた部分をセメントで埋めた神社が多かった。ここ石神社にとっては、実に70有余年ぶりの復元です。
手水に、新鮮な水が流れていて、境内もとても綺麗にされていました。お神輿なのかな。龍の彫刻が見事でした!
車椅子用の参拝が、できて便利だ。
広い敷地に社と碑があり、 狛犬が出迎えてくれます。ここ数年は上里のマラソン大会のスタート地点になってます。
旧指定村社。主祭神:高皇産霊神(たかみむすび)神皇産霊神(かみむすび)合祀:大己貴命、小彦名命。創建:平安時代後期(11世紀後半)創建。御由緒書きに:当地は中世の石神郷と考えられる。『風土記稿』では、烏川から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名と伝える。全国の石神の総社とされ、日本総社石神大明神と称す。元弘三年(1333年)に新田義貞が上州より鎌倉に攻め上る際、戦勝を祈願し、以来この森を「勝の森」と称するようになったという。また、天正十年(1582年)に北条氏邦・氏直と滝川一益が戦った神流川合戦の際、氏直が参詣して戦勝祈願したとも伝えられる。とあります(石神社の御神体の石棒は上里町指定文化財)。境内社の富士浅間神社には富士塚が祀られています。当社の由緒書きのところには記載がありませんが、富士塚に関する古図面を入手した所、富士塚の一角に、天照大神を真ん中に、左右に日子番能邇々芸命(ニニギ)と神倭伊波礼日子命(ジンム)を祀る石碑を見つけました。神社と言えば鎮守の森、閑静な住宅街に、いや、道を隔てて斜め西側は神保原小学校、元気な声が聞こえてきます。いつ行っても手水が流れていて、気持ち良く参拝出来ました。令和2年、社号標に埋め込まれたセメントが除去され、「指定村社 石神社」の文字が復活。(明治維新以降に制定された近代社格制度だが、第二次世界大戦後に廃止)1946年、GHQの神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に、その干渉を恐れ、石の社号標の社格が刻まれた部分をセメントで埋めた神社が多かった。ここ石神社にとっては、実に70有余年ぶりの復元です。石神社創建は、石神郷の始まった頃、中世(平安時代後期(11世紀後半))と想定。石神郷の地方官が先導で、この辺りに太古からある、石神信仰を神社として祀った。参考として、石神社のご祭神の推移(現在から過去へ)を探る<現在>高皇産霊神、神皇産霊神(合祀:大己貴命、小彦名命)。明治22年1889年町村制施行により、石神社の南隣の石神村役場は神保原村役場(石神村・忍保村・八町河原村の三村が合併)となりました(現在空き地)。この年、明治政府に於いても大日本帝国憲法が発布され、信教自由の原則が保障されましたとあります。実質、国家元首(天皇陛下)の元、より強固な統治が実施され、明治政府による神道重視政策への対応が求められ、本来の当社のご利益に共通することから、皇祖神の男女二柱の神(石神信仰の一つである双体道祖神のご利益:夫婦和合、子孫繁栄も考慮)を主祭神とする。*本来の当社のご利益とは、石神社の元々の信仰である石神のご利益(後述)。<中継>明治12年以前は、大己貴命、小彦名命「石神村神社明細帳(明治12年)」と記載。いわゆる、出雲系の祭神二神です。この出雲の二柱を祀る事はいつから始まったのかを考察すると、石神社の創建を石神郷の始まった頃、中世(平安時代後期(11世紀後半))と想定して、それ以降は明治維新に至るまで、武家支配時代の封建時代であり、鎌倉時代、戦国時代と当地の統治者は武蔵七党の丹党、新田家臣下、北条家臣下と目まぐるしく推移し、江戸時代黎明期には川窪氏(旧武田家)になりますが、江戸時代早々に徳川幕府の直轄地(蔵入地(天領)と旗本知行地(旗本領)、寺社領、などのどれか)と変更になり、武家支配時代には祭神の石神大明神を他の祭神に変更した経緯は無い様です。残るは明治維新ですが、明治元年(1868年)明治政府は神仏分離令(神仏判然令)を発令し、神道を国教化するための政策を実施とあります。ここに関連するのが、「もともと別当照蓮寺持であったが、明治初期に神職の受け持ちとなった」とある当社の由緒です。従いまして、当社が神仏分離で神職持ちになった時点(明治初期)を、出雲系祭神への主祭神変更の時期ではないかと推測します。<創建>「新編武蔵風土記」には「古え烏川より引き上げし石剣(石棒)を祭りて鎮守とせし」石棒は、縄文時代中期に関東、中部地方を中心に発達した古代の石神信仰の信仰物。石神社創建は、石神郷の始まった頃、中世(平安時代後期(11世紀後半))と想定。石神郷の地方官が先導で、この辺りに太古からある、石神信仰を神社として祀った。石神信仰(産土神説):元々この集落の形成時よりあった信仰。「石神村字切絵図」山下家文書(江戸後期頃)に「社宮司シャグジ」と言う地名記載あり。石神(いしがみ、シャグジ)信仰とは、分布域が関東と中部地方に偏り、民俗学者・柳田國男の唱えるサイノカミ信仰に類する信仰で、諏訪神社信仰(ミシャグジ)や双体道祖神の分布域に重複する。「シャグジ」のご利益は、縁結び、安産、子育て、耳・歯の病や咳止めなど(咳止め祈願にしゃもじを奉納する神社がある)。「双体道祖神」のご利益は、夫婦和合、子孫繁栄。石神社「浅間神社御祈祷申込芳名帳(昭和2年)」祈祷に際して「しゃもじ」を授与ともある。
| 名前 |
石神社(せきじんじゃ)(神保原) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0495-76-3238 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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