高瀬城から眺める出雲平野。
高瀬城跡の特徴
高瀬城は米原氏の城として歴史的価値が高いです。
宍道湖と出雲平野の絶景を贅沢に楽しめます。
整備された登山道を使い快適にアクセス可能です。
健康のため山歩きを勧められ低くて整備された道がある山を探しててこちらに辿り着きました。天気が良かったせいで大変気持ち良かったです。途中でここを管理されてる斐川尼子十旗顕彰会の方に出会い、高瀬城のお話を聞くことも出来ました。おかげさまで大満足でした。私が降りる頃には何人もの方とすれ違い人気の散策コースであることも知りました。帰るころには多数の車があり最初に駐車した私は少しご迷惑をかけたかも知れません。車は斜めに止めると良いのですね。たくさん訪れられると知らずすみませんでした。
城跡北東側の道路沿いの、橋の手前が登城口で駐車スペースが有ります。城跡は南北に伸びる尾根に展開します。細尾根を登っていくと細長い三ノ丸に出ます。七曲りを経て平坦な駄置場に至ります。ここに縄張の書かれた案内板があります。案内板のところで高瀬城を整備されている、出雲斐川尼子十旗顕彰会の方にお会いしました。二の丸を整備中で伐採した木材を背負って下山されるところでした。最近(令和4年)に縄張の案内板を立てられたばかりだそうです。宍道湖方面からの侵攻に備えた城で、中世のころは宍道湖はもっと城跡に近かったとか、斐伊川の堆積で湖岸が東へ狭まったとか、いろいろお話しを伺いました。道の駅湯の川に事務局があり情報もあるそうです。南に登ると本丸である甲の丸方面に向かいます。段々の曲輪が複数あり、途中比較的大きな曲輪にベンチが備えられています。甲の丸頂上は木々が切り払われ、北側の宍道湖方面が眺望できます。駄置場から西に行くと二の丸です。
高瀬城は米原氏の城として尼子十旗第六に位置し、出雲平野、宍道湖を見渡せる場所にあります。現在は尼子十旗顕彰会(保存振興)によって山頂までの距離表示や登山道の注意喚起など設置され、二の丸、駄置場などの整備が着々と進められています。4月6日(シロの日)に合わせて標柱を制作。山頂からは阿宮城平山城が間近に見る事ができ春くらいまでは展望もよく見渡せます。大山や三瓶山、隠岐島が見えることもあります。
宍道湖と出雲平野が見渡せます。■アクセス︰南側(光明寺)からスタート!登山道は整備されていましたが、途中にロープ設置の急斜面がある。また、頂上では樹木に隠れ見えなかった出雲大社方面u003d日本海が見える所も道中にあり!■山頂︰眺望良好!休憩するスペースも多少ある。■その他︰途中の山中に石垣が…木、竹に隠れているが、よく見ると平、段になっていて…何かあったのか?と思いを馳せる。
登山道はよく整備されている。遺構は南北に長く展開するが、ほとんどの遺構を見学できるようになっている。小高瀬(二の丸)だけはやや茂るが、道がついている。
加茂岩倉から中国自然歩道を歩きました 往復約10km頂上からは北から東向きには眺望がひらけますが、それ以外の方角は木が茂ってよく見えません。
眺望が良いです。島根県 自然環境課(☎0852‐22‐6172)からの『4―2 中国自然歩道 宍道湖・斐川・雲南コース』を持って歩くと役立ちます。
| 名前 |
高瀬城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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尼子十旗の一角の米原氏の居城高瀬城です、築城年代はわかりませんが、戦国時代頃に築かれたとされます、1532年の尼子経久の三男塩冶興久の反乱の際米原綱広が塩冶興久を救い出したという話があり、1569年には尼子残党の挙兵に、米原綱広の子米原綱寛が、籠もりましたが1570年の布部山の戦いで、尼子残党が敗北したため、高瀬城は孤立して、鳶ヶ巣城の毛利輝元・元春、平田城の岡又十との間で城下町で激しい戦いになりました。1571年に毛利輝元が城を攻めて、落城、吉川元春が入城したが、尼子残党が一掃されてから、この城は廃城になったと思われます。なおこの城で吉川元春は毛利元就の死を知ったようです。地元では、米原氏が落城時に持ち出せずに埋めたとされる。埋蔵金が城内に眠っているという伝説があります。