茨城最古の柿岡考古博物館見学会。
柿岡城跡の特徴
茨城県最古の柿岡考古博物館がある歴史的な場所です。
高台に位置する城址で自然に囲まれた散策が楽しめます。
年に数回の見学会が魅力的な体験を提供しています。
太田資正の子梶原政景が居城としていた城。現在は小学校なので入れず。
関八州諸城覚書(毛利家文書)にもその名が記される常陸国の名城ですが、なにせ跡地は現在、柿岡小学校になってしまったので、このご時世、うっかり城跡探索に取りかかろうものなら、あっという間に不審者として逮捕、市中引き回しの上打ち首獄門に処されてしまいますため、入口だけで我慢です。古い方の解説板を引用すると、「柿岡の西南館地内の高台にある。三方を田園にかこまれ西北の一戦が善慶寺を境として町家に接し残塁空壕四辺をめぐってその間に民家が軒をつらねている。源頼朝が幕府を開いたころ、常陸守護職に補せられた八田知家がその子小田時知(時家ともいう)をここにおいたといわれ、それからのち代々柿岡氏を称え、東西三キロの片野城とともにこの地方を支配していた。戦国末期には梶原美濃守政景の居城となったが、天正元年小田天庵氏治が太田三楽父子に攻められて敗退するや、柿岡城には真壁房幹が入った。文禄四年(1595年)の秋から長倉義興が居住すること六年、慶長五年(1600年)に急死した。その後国分盛重に代ったが、徳川になってから後、九州柳川の立花氏の領地となり、稲葉正勝の領地を経て徳川氏の直領として代官の支配となり、明治維新まで続いた。」なかなか蒼々たる城主の面々ですが、長倉義興は宗家の佐竹義宣に水戸城修復のことで諫言したことから憎まれ、幽閉されて謎の死(毒?)を遂げたのでしたね。
稲葉1624-1628 1月マン石修の部門に正(原文)正成系稲葉1624-1628年 1万石。
高台にある柿岡小学校の構内にある史跡跡。
| 名前 |
柿岡城跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
2.5 |
| 住所 |
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小学校敷地内に非公開だが、柿岡考古博物館があるこの博物館は、茨城県最古の博物館だそうです年に数度くらい、城址や博物館の見学会をやれないものですかね?