小栗上野介の歴史と悲劇、ここに。
小栗上野介忠順終焉の地の特徴
地元の思いが詰まった小栗上野介の史跡です。
幕末の歴史を感じる場所で、見逃せない散歩スポット。
明治維新の裏に隠された功績に思いを馳せる場所です。
小栗上野介忠順は咸臨丸にてアメリカに渡り、江戸幕府の要職について横須賀造船所は小栗上野介の提言による建設された。小栗上野介は慶応四年(1868)に薩長連合軍に江戸幕府として徹底抗戦の意見が受入られず領地の権田村に帰ったが、官軍に捕らえられてこの地で3人の家臣と共に処刑された終焉の地です。
田んぼの一画にポツンと偉人の石碑。群馬県最強の妄想スポット。徳川埋蔵金や横浜製鉄所など当時に思いを馳せ胸熱になれます。大河の前にちゃんと駐車場整備希望。ついでに青柳の徳川埋蔵金サブレ直売所も作って更に北九州で売ってるネジチョコを小栗ネジチョコって名前で売るとか!大河が楽しみ!
高崎市倉渕町水沼の田んぼに佇む、小栗上野介忠順終焉の地。本来は、河川敷に有ったらしいのです、堤防を造る際に支障になったため、やむなく移動したそうです。洪水で流されても大変なので仕方ないですね。最近は、令和9年度の大河ドラマ「逆賊の幕臣」効果もあってか、土日になると観光客の方々が多く訪問されています。最近なのでしょうか、河川敷に駐車場(砕石敷ですが)も整備されたようで、ますます訪問しやすくなっていますね。秋以降になって涼しくなれば、更に観光客が増えそうな予感がしております。草津温泉や北軽井沢に行く途中ですし、近くに道の駅もあるのでオススメスポットですね。
2027年の大河ドラマは小栗上野介だそうで、終焉の地を訪れてみましたが、再来年ではまだ盛り上がる前ですね。時代とはいえ無実の罪で斬首された無念はいかばかりか。
慶応四年(1868年)閏4月5日、上野介と家臣三人は捕縛され何の取り調べもなく、翌日水沼川原において斬首された。時に上野介42歳。終焉の地には、「偉人小栗上野介罪なくして此処に斬らる」と刻まれた碑(小栗公顕彰慰霊碑)が、昭和七年(1932年)地元の有志等により建てられた。実は、この碑に刻まれる文言の試案がもうひとつあり、確か「小栗上野介忠順終焉の地」だったと記憶しています。本来ならば、この文言は採用されなかったが、地元有志の強い要望によりこの文言が採用されたと伝えられている。この「顕彰慰霊碑」がある一帯を「小栗上野介忠順終焉の地」と呼び、高崎市指定史跡に指定されている。
小栗上野介に対する地元のみなさんの思いが伝わってくる場所でした。
ここを訪れるのは2度目です。小栗公とその家臣たちが、無実の罪で斬首されました。どのような思いで臨んだのか?
罪なくして捕らえられ、取り調べもなく翌日に斬首するという非情なことを指示したのは明治維新で活躍した勝海舟なのか板垣退助なのか?それとも?
歴史に名高い、小栗上野介の最期の場所正直、詳しいことは知りませんでした(^_^;)ただ、これだけ優秀な方なのでもっと活躍できたであろうと。今を生きる我々がもっと考えて、良くしていかねば申し訳ない気持ちにたなりました。とてものどかな場所ですので、道の駅に立ち寄りがてらに訪れてみては如何でしょうか(^-^)
| 名前 |
小栗上野介忠順終焉の地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は、文政10(1827)年、神田駿河台の旗本の家に生まれ、早くからその才覚を現し、34歳の時には日本初の遣米使節団の一員として渡米しました。帰国後は外国奉行や勘定奉行などの要職を歴任し、横須賀製鉄所の建設や日本初の株式会社「兵庫商社」の計画など、明治日本の近代化の礎となる数多くの功績を残しました。しかし、明治維新によってその運命は暗転します。抗戦論が受け入れられず、全ての役職を解かれた忠順は、42歳で知行地のひとつであった権田村(現:高崎市倉渕町権田)に隠棲しました。権田村に土着するために訪れた忠順を、岩永村、川浦村、水沼村、三ノ倉村の近隣の村々が襲撃しましたが、権田村の村人と共に戦い、これを撃退しています。平穏な日々は長くは続かず、慶応4(1868)年閏4月、忠順は新政府軍に捕縛されます。そして閏4月6日、烏川の河原において、弁明の機会も与えられぬまま家臣3名と共に斬首されるという非業の死を遂げます。翌7日には、高崎の牢にいた養嗣子小栗又一忠道も牢の前で処刑され、父子の命は無情にも奪われました。村での生活はわずか65日間でした。その一方で、権田村の人々は、身重であった忠順の妻・道子をはじめとする家族を守り抜き、裏街道から会津まで無事に送り届けました。一部の村人はそのまま会津で厳しい冬を越し、翌春には母子を江戸へと護衛し続けます。母子の安全を見届けて村に戻った時、彼らの姿はまるで乞食のようであったと伝えられており、その忠義の深さを物語っています。日本の未来を見据えながらも、志半ばで非業の死を遂げた忠順。この地を訪れると、彼の無念さが偲ばれると同時に、わずかな時間で築かれた権田村との強い絆、そして彼の遺した功績が今なお大切に語り継がれていることに胸を打たれます。日本の近代化に命を捧げた一人の武士の生き様が、時を超えて強く心に響いてくる場所です。