兼六園奥の美しき紅葉。
山崎山の特徴
兼六園の奥に位置し、美しい紅葉が見られます。
芭蕉の句碑を訪れた後の休憩に最適な場所です。
園内の小川を遡って辿り着く、趣ある風景が魅力です。
兼六園の奥に佇む静かなスポット。観光客も比較的少なく、落ち着いた雰囲気の中で小休止するにはぴったりの場所でした。訪問時はまだ紅葉には早い時期でしたが、別名の通り秋には美しい景観が楽しめそうです。賑やかな兼六園の中心部とは対照的に、このあたりの穏やかな空気感がとても印象的で、個人的には一番心に残りました。次はぜひ紅葉の季節に訪れて、その風景をゆっくり味わいたいと思える素晴らしいスポットです。
金沢の兼六園内にある山崎山(やまざきやま)は、江戸時代初期に金沢城の防御のために築かれた土塁が原型となっている築山だ。兼六園の中でも奥まった場所に位置し、山頂には茅葺きの東屋が設けられている。別名の「紅葉山(もみじやま)」が示すように、秋にはモミジやトチノキが鮮やかな紅葉を見せる場所でもあり、園内随一と称えられることもあるほど美しい場所だ。もともと山崎山が築かれたのは慶長年間、つまり1600年前後のことになる。徳川幕府との微妙な関係に置かれた前田家が、城の防御力を高めるために金沢城下町全体を取り囲む巨大な外郭防御線、「惣構(そうがまえ)」を築いたことに端を発している。この外惣構は全長4キロメートル以上にも及ぶ大規模なもので、その東端部分に山崎山が位置していた。当初は武骨な土塁だったが、その後寛永9年(1632年)に辰巳用水が開削されると、水が流れ込むようになり、水堀へと変貌を遂げる。現在でも山崎山の山腹からは湧き水が出ており、約570メートルの曲水となって兼六園の中心、霞ヶ池へ注いでいる。防御のために作られた土塁が、時を経て庭園の美を演出する水流に生まれ変わったというのは興味深い歴史だ。この山崎山が本格的に庭園として整えられたのは藩政後期、文政年間(1820年代)に入ってからのことだ。当時の藩主・前田斉広(なりなが)が「竹沢御殿(たけざわごてん)」という別邸を造営し、その周囲が広大な庭園、つまり現在の兼六園として整備された。これに伴い山崎山も庭園築山へと改修され、苔むした斜面に木々が植えられ、灯籠や石塔などの景観施設が追加された。山崎山を象徴する景観の一つが、中腹にある小さな石造塔、「御室の塔(おむろのとう)」だ。これは京都の仁和寺(にんなじ)の五重塔を模して作られたもので、設置したのは次代藩主の前田斉泰(なりやす)である。斉泰は京都育ちの実母・真龍院(しんりゅういん)のため、この塔を庭園内に据えたと言われている。小さな塔ながら、そこには前田家母子の情愛が込められている。現在でも兼六園を訪れる人々がこの塔を見ては、その趣ある形や佇まいに見入っているのをよく見かける。また、明治期には山崎山周辺も文明開化の波を受け、明治3年(1870年)頃には山の南側に洋館(異人館)が建設されている。これは石川県初の西洋建築であり、当時ドイツから招かれた鉱山学者、ハインリヒ・フォン=デッケンが暮らしたという。その後、この洋館は「金沢勧業博物館」として利用され、市民に公開されるなど金沢に西洋文化を広める役割を果たした。現在は洋館跡に苔庭が広がり、当時の建物の痕跡を直接見ることはできないが、文明開化期の金沢を知る貴重なエピソードとして知られている。周辺の史跡との繋がりを見ても、山崎山は非常に重要な意味を持つ。特に、隣接する成巽閣(せいそんかく)とは深い関連性がある。成巽閣は文久3年(1863年)に藩主の斉泰が母・真龍院のために建築した御殿であり、現在は国の重要文化財に指定されている。この御殿の縁側からは山崎山がよく見えるように配置されており、御室の塔を眺めながら母が穏やかな晩年を送れるよう、息子である藩主が意識的に設計したことは間違いないだろう。江戸初期の軍事施設から庭園の景観要素へと変化した山崎山。その山に秘められた多くの歴史やエピソードを知ると、兼六園を訪れたときの感慨はまた格別なものになるだろう。金沢を訪れる人々には、ぜひ兼六園の奥に佇むこの小さな丘にまで足を延ばしてほしいと思う。歴史的背景を踏まえながら景色を眺めることで、この丘が金沢の歴史を雄弁に語っていることが感じられるはずだ。山頂の東屋で静かに吹き抜ける風を感じれば、かつてこの土地を守った土塁の面影が浮かぶだろうし、苔むした小道を辿れば、江戸から明治へと駆け抜けた金沢の時代の息吹を感じ取ることもできるだろう。
山崎山は、高さ9m、周囲160mほどの人工的に造られた築山ですが、金沢城の防御として作られた総構えの跡と言われています。周囲と馴染んでおり全く気が付きませんでした。頂上には休憩所もあります、秋には、楓や紅葉、栃ノ木などの広葉樹でキレイな紅葉が見れそうです。
芭蕉の句碑から少し上って休憩所で一息。緑いっぱいで風の音に鳥の声がしてお昼寝したくなりましたw
兼六園山崎山。金沢城の防御として作られた総構え跡と言われ、紅葉山とも呼ばれることがある。
兼六園の中でもこの場所の紅葉がとても綺麗でした。紅葉とその落ち葉であたり一面が赤・黄・オレンジ。11月中旬、ちょうど見頃でした。
金沢城を防衛する惣構の起点と考えられています。藩政期 山崎山は土居、池は堀だった様です。
41.金沢【芭蕉自筆影印】①おくの細道紀行文卯の花山 くり可ら可谷越こえて 金澤盤七月中の五日也 爰に大坂より可よふ商人何處と云ものあり それ可旅宿をとも尓す 一笑と云无の盤 此道尓す遣る名乃 本のゝゝ聞へて 世尓知人も侍し尓 去年の冬早世志多里とて 其兄追善(?)を催ス耳(卯の花山、くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云ものあり。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのゞゝ聞へて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善(?)を催すに)塚もうこ氣我泣声盤秋の風(塚もうごけ我泣声は秋の風)(塚も動け我泣声は秋の風 大垣記念館)ある草庵尓いさなは連て(ある草庵にいざなはれて)秋すゝし手毎尓む氣や瓜天茄(秋すずし手毎にむけや瓜天茄)途中唫(途中吟)あ可ゝゝ登日盤難面も秋の風(あかあかと日は難面も秋の風)②「あかゝゝと」句文懐紙め尓盤さや可尓登い飛氣舞秋立介しき 薄かる可や農葉末耳うこ支て 聊昨日尓替る空乃奈可免哀な梨介禮者あかゝゝ登日盤難面も秋の風(めにはさやかにといひけむ秋立けしき、薄かるかやの葉末にうごきて、聊昨日に替る空のながめ哀なりければあかゝゝと日は難面も秋の風 )③「あかゝゝと」句文懐紙旅愁なく佐免兼て ものうき秋もやゝい多りぬ禮者 さす可にめ尓みえぬ風の音つれもいとゝ可那し介なる耳 残暑猶やま佐り介禮者あかゝゝ登日盤つ連なくも秋の風(旅愁なぐさめ兼て、ものうき秋もやゝいたりぬれば、さすがにめにみえぬ風の音づれもいとゞかなしげなるに、残暑猶やまざりければあかゝゝと日はつれなくも秋の風 )④「つかもうごけ」発句詠草登し比我を待介る人のみま可利介るつ可尓まう(詣)てつ可もうこけ我泣聲ハ秋の風(とし比我を待ける人のみまかりけるつかにまう(詣)でつかもうごけ我泣声は秋の風 )【句碑】①蛤坂金沢市寺町5犀(さい)川大橋南詰あ可ゝゝと日盤つ連奈く毛秋の風(あかあかと日はつれなくも秋の風)②成学寺金沢市野町1-1-18あ可ゝゝと日盤津連那くも秋能?(あかゝゝと日はつれなくも秋の風)③兼六園金沢市丸の内1-1公園内山崎山登口あ可ゝゝ登日盤難面も阿支能風(あかあかと日は難面もあきの風)④長久寺金沢市寺町5-2-20秋涼し手毎尓むけや瓜茄子(秋涼し手毎にむけや瓜茄子)⑤願念寺金沢市野町1-3-82つ可もうこけ我泣聲ハ秋の風(つかもうごけ我泣声は秋の風)「自筆『つかもうごけ』発句詠草を拡大」⑥本龍寺金沢市金石西3-2-23小鯛さ寸柳春ゝしや海士可軒 ?(小鯛さす柳すずしや海士が軒 ?)(小鯛さす柳涼しや海士が妻 大垣記念館)《施設・句碑拡大写真はgoogle検索「芭蕉句碑の解読」》
「あかあかと日は難面もあきの風」
| 名前 |
山崎山 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
076-234-3800 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 8:00~17:00 |
| HP |
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/26/index.html |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
「兼六園」の小立野口付近にある、人も比較的少ない静かなところでした。一面を覆った苔の緑が美しい自然美の庭園と言う雰囲気。遊歩道を散策することができます。高い所に茅葺の東屋があり、腰を下ろして景色を堪能できました。なかなか良い眺め。「兼六園」の中でもとっておきの場所と言えます。別名「紅葉山」とも呼ばれ、少しづつ色付き始めたカエデ、トチノキなどが木漏れ日を通して美しいです。散策路の途中には「白川御影石」でつくられた五重の塔(御室の塔) が有ります。ここ、山麓の岩間から流れ出る水は約570mの曲水となって「霞ヶ池」に注いでいます。