イバラ鎌必須の観測所探訪!
着弾地観測所跡の特徴
海に向かう車道から作業道を歩いて行くと近くまで行ける場所です。
観測用のスリットが健在で歴史を感じるスポットです。
中は崩れかけているので訪問時は自己責任が必要です。
知られている観測関連施設跡の中で、周辺整備が行われたものの一つ。建物は劣化が進んでいるものの、未だ十分見学することができます。いずれ忘れ去られてしまいますので、現存する今のうちに訪れておくと良いでしょう。
内灘町西荒屋の砂丘地帯に、ひっそりと佇む小さなコンクリートの遺構がある。ここは「着弾地観測所跡」と呼ばれる場所で、戦後まもない頃、米軍が内灘の海岸一帯を砲弾試射場として使っていた時代の貴重な遺構だ。昭和27年(1952年)、朝鮮戦争が激化するなか、日本国内においても米軍が砲弾の性能試験場を必要としていた。政府は内灘海岸の砂丘地帯をその候補地と定め、正式に米軍試射場としての使用を決定した。だが、突然の接収計画に内灘の人々は激しく抵抗し、日本で初めての大規模な基地反対闘争、「内灘闘争」が始まった。村議会や労働組合が中心となって、地域一丸となって反対運動を展開し、全国的にも注目を浴びた。けれども、政府の方針は覆らず、昭和28年(1953年)3月、とうとう砲弾の試射が開始されてしまう。以降約4年間、内灘の海岸では砲弾が飛び交い、この観測所は、砲弾がどこに落下したのかを確認する役割を担った。この着弾地観測所跡は、鉄筋コンクリート製の頑丈な造りで、窓から砲弾が落ちる様子を観測して記録していた施設だ。同様の施設は他にもあったが、西荒屋のこの観測所は、特に状態がよく残っていると言われている。当時を知ることのできる数少ない施設の一つであり、内灘闘争の激動の日々を今に伝える大切な遺構だ。現在、この観測所跡は公式の文化財には指定されていないものの、地元の人々にとっては戦後史を物語る重要な場所として認識されている。施設自体は老朽化が進み、周囲は藪や林に覆われているが、その存在は戦後日本の社会運動史を伝えるシンボル的な意味を持っている。内灘町には、内灘闘争の歴史を伝える施設「風と砂の館」があり、当時の資料や写真も展示されている。着弾地観測所跡もそこで紹介されており、歴史に関心のある人なら、一度は知っておいて損はない場所だと思う。砲弾が着弾した地点を静かに見つめ続けてきたこの観測所は、戦争と平和を考える良いきっかけになるかもしれない。
北側の海に向う車道から作業道を歩いて行くと近くまで行ける 10mほど藪行くがイバラ鎌必須 中も入れるが崩れかけているので自己責任 観測用のスリットも健在。
行ったこともないのだが、Googleさんからいきなり、「着弾地観測所跡(西荒屋)」はいかがでしたか?との質問?で、調べてみた。背景)1952年朝鮮戦争のため、アメリカ軍の砲弾の需要が大きくなり日本国内のメーカーから納入される砲弾の性能を検査するための試射場が必要となった。試射場には長い海岸線をもつ場所が適しており静岡県の御前崎周辺と、この内灘砂丘が候補となり、最終的に内灘に決定された。これに対して村議会は反対決議を行い、北陸鉄道労組は浅野川線で行われる資材搬入に対してストライキを行うなどの支援を実施し、内灘闘争(うちなだとうそう)と言うアメリカ軍の試射場に対する反対運動に発展した。闘争は1957年のアメリカ軍撤収で終息した。wikipedia/内灘闘争引用:
2018年12月の時点で、特に整備はされておらず気軽に歩いて行ける場所とはなっていません。着弾地観測所を是非に見たいという事であれば、権現森にもう一つありますのでそちらを見に行くべきかと。
| 名前 |
着弾地観測所跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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生半可な覚悟で来るんじゃねえぞ、藪漕ぎに近い!サルトリイバラ、蜘蛛の巣パレードで、半ズボンできた私の体と心はズタボロになりました。一応道路から観測所までは獣道のようにはなっているので、辿り着くことは可能ですが...手軽に見るなら権現森の方の観測所跡で十分です。これ以上ズタボロになる人が出ませんように。