冒険心をくすぐる松岡城跡。
龍子山城(松岡城)跡の特徴
二重の川に守られた、歴史ある山城の跡です。
室町時代から幕末まで用いられた貴重な文化遺産です。
松岡城跡と呼ばれる場所には重要な井戸があります。
2024年12月26日に散策しました。今回の旅行は、新庄藩の戸沢氏について調べることをメインにしていたため、見学できて嬉しかったです。散策路を整備してくださっていた男性の方と立話が出来て参考になりました。室町時代、この地の地頭となった大塚氏が、応永の末1420年前後頃に築城した連郭式の山城です。山頂の本丸、切岸、土塁等など、大塚氏時代の中世形式のまま、残っていると感じました。関ヶ原後、角館から戸沢政盛が転封されて来るのですが、最初は小美玉市の小川城に慶長7年1602年に入ります。小川城の立地が不便だったとのことで、慶長11年1606年に居城を龍子山城に移しました。現在の松岡小学校の場所に平城を増築して、城名も松岡城と改めています。戸沢政盛は、20〜30代の頃、この地で藩政を切り盛りし、舟生氏を初めとして多くの有能な家臣を迎えたと言われています。最上氏の改易により、元和8年1622年に戸沢政盛は、出羽の新庄藩へ転封となりました。松岡藩は、水戸藩の領地となります。正保3年1646年、水戸藩家老中山信政が城主となりました。しかし、中山氏は宝永4年1707年に常陸太田へ移ったため、空城となりました。享和3年1803年、中山信敬が松岡城主に戻り、城下町を整備して明治維新を迎えました。
2023年9月27日09:30訪問:松岡城の石碑を見つけ、ハンドルを切った。石畳の道を暫く走ると、小学校に突き当たった。その脇を抜けていくと、城の説明板が見えた。城跡に足を踏み入れたが、竹林の中をさまよって終了。堀の跡はどれだろうと探してみたが、はっきりと分かりませんでした。
2022/8/21二重の川にまず守られている。陣屋跡の小学校を越えて、登城口に至るとまず、水堀と複雑な虎口に感動。虎口を抜けると広い御殿跡。更に進むと、豪快な堀切か切通しを越え、2、3の曲輪を通って主郭前の土塁に。ここまでの通路は折れ曲がり、かなり複雑。主郭はなかなか広く、奥から二郭に行けるが、間には空堀がある。冬に来ればもっと楽しくゆっくり探索できそう。
室町時代から幕末まで断続的に用いられたとされている城で、山城に始まり麓の平山城に改築されたと見られています。19世紀初頭の城主、中山信敬の頃に整備されたと思われる城下町の、雰囲気を残すお屋敷通りや麓の水堀などは見どころと言えます。やはり麓にある居館部分までは探索し易いですが、山城部分は思いの外広く、主郭周辺を彷徨いたものの横堀や堀切といった遺構を見つけるに至らないなど、把握出来ない有様でした。この城の築城年代は定かではありませんが、室町時代、上杉禅秀の乱で佐竹氏とともに戦功あった地頭大塚貞成が城主になり、大塚氏の頃に竜子山城は山城として築かれたと見られているようです。その後大塚氏は岩城氏に攻められて落城し、従属することになったと言われています。しかし江戸時代に入る頃には大塚氏は常陸国を去り、一旦廃城になった様です。17世紀中頃に水戸藩付家老の中山信政が入城し、以降は中山氏の所領であり、断続的ながら中山氏の居城として幕末まで用いられた様です。
山の入口にある案内板の地図を参考に見てきました。古井戸以外は現存していないようですが、とても雰囲気があり、当時を想像しながら楽しむ事が出来ました。👍ただ、結構泥濘が多くて歩くのが大変なので、行かれる際は長靴の方が良いかも⁉️
龍子城とも呼ばれる松岡城跡。松岡藩の遺構は殆んど残っていませんが、地元ではそれを活用しようとしているみたいです。
井戸以外は見処がないと思います。
| 名前 |
龍子山城(松岡城)跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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分け入ると、遺構などいろいろあって、冒険心を呼び覚ます。