赤井官衙遺跡で遙かなる歴史を。
赤井官衙遺跡の特徴
8世紀頃の役所跡があり、歴史を感じられる場所です。
国指定史跡の赤井官衙遺跡で、貴重な観光体験ができます。
道嶋氏ゆかりの地で、歴史探訪が楽しめるスポットです。
724年、現在の宮城県多賀城市に、その地名の由来となる古代城柵が創建された。2024年で創建から1300年となるのを記念して、多賀城をはじめとする古代城柵遺跡で御城印が配布された。多賀城(宮城県多賀城市)牡鹿柵(宮城県東松島市)伊治城(宮城県栗原市)払田柵(秋田県大仙市・美郷町)城輪柵(山形県酒田市)胆沢城(岩手県奥州市)志波城(岩手県盛岡市)徳丹城(岩手県矢巾町)御城印目当てに城柵巡りをした。古代城柵は、律令国家が本州東北部に支配域を拡大するための拠点として造営した、行政と軍事の機能を併せ持った施設と考えられている。ーーーーーーーーーー2024年10月20日宮城県東松島市の赤井官衙遺跡は、古代牡鹿郡を治めた牡鹿郡家、または牡鹿柵だったと考えられている。「日本書紀」に続く正史「続日本紀」に、多賀柵(多賀城)とともに天平五柵の記述がある。天平五柵は、北方の備えとして、石巻平野から大崎平野にかけて造営された。牡鹿柵は、この天平五柵の一つ。官衙遺跡は、縄文時代の海岸後退で形成された標高2メートルの浜堤上にある。浜堤の南側を県道16号線が走っている。県道に、遺跡の案内標識は無い。この県道を何度も走ったことがあったが、遺跡の存在には全く気付かなかった。県道から浜堤を登る小径に入り、少し進むと、左手に公民館があった。公民館に隣接する公園が官衙遺跡だった。民家と畑に囲まれた、小さく静かな公園だった。
7〜9世紀頃の役所跡で、国指定史跡となっています。遺構は埋戻されて公園なっていますが、周囲の地形から往時の状態や規模を窺い知る事が出来ます。
牡鹿柵であったとも。案内板によると古代陸奥国の有力豪族丸子氏の館跡、丸子氏はその後天皇より道嶋の姓を与えられたり陸奥国司に任じられたりと大出世します。
道嶋氏で有名な赤井官衙遺跡をついに訪問。平成30年に市で立てた看板があります。看板には、さらっと道嶋氏や官衙のこと、発掘の内容が書かれています。多賀城は誰でもがしる古代史の有名な遺跡ですが道嶋氏も伊治城や胆沢城の造営や征夷などの政ごとに携わった有名な豪族であり古代東北史の重要です。是非、赤井官衙遺跡をもっと盛りたてて、地域の学習や地域おこしに役立ててほしい。古代東北史ファンには訪ねてほしい場所。
2021年8月20日に訪れました。飛鳥時代から奈良時代にかけての牡鹿柵官衙遺跡です。大化の改新頃に上総(千葉県)の丸子氏が、この地に入植したのが始まりと考えられています。この遺跡から「舎人(とねり)」と書かれた土器が出土しました。丸子氏は、この地の郡司職を担っていたと考えられます。後に丸子氏は、753年に牡鹿連(おしかのむらじ)を賜わりました。この牡鹿郡家出身者に牡鹿連嶋足(しまたり)がいます。彼は、764年に起きた藤原仲麻呂の乱を坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)共に鎮圧し、道嶋宿禰(みちしまのすくね)の姓(かばね)を賜わりました。高橋克彦の「風の陣」に登場する道嶋宿禰氏の本貫地と考えられています。多賀城よりも早く、郡山遺跡と同時期くらいに成立していたのではないかと思われます。この遺跡の出土品は、同じ市内の奥松島縄文村歴史資料館に展示されています。
| 名前 |
赤井官衙遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
022-211-3683 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
赤井官衙遺跡です。古代柵跡で天平五柵の一つ牡鹿柵跡と推定されているようです。遺構は特になく公園として整備されておりました。