佐渡金山の迫力ある歴史。
搗鉱場跡(とうこうばあと)の特徴
佐渡金山の帰りに立ち寄りたい史跡です。
南米インカ帝国のような雰囲気が魅力的です。
廃坑跡の迫力をしっかりと感じられます。
訪れたのは冬のオフシーズンで、他に訪れる人はいませんでした。その場所は僕たちのものでした🤣。遊び回り、素敵な写真を何枚か撮りました。
四季折々の表情が楽しめます。7月31日にたまたま通りかかったので、相川診療所から見下ろした写真をアップしました。世界遺産からは外れてしまいましたが、ゆっくりと訪れたい場所です。
佐渡金山の帰りに寄ってみるとよいかと思います。ただ、枯れ葉等で滑りやすいところがあるので足元に注意した方がよいかと。
採掘した鉱石から幾重もの工程を経て金を集める工場の跡地のようですが、建物は取り壊されてコンクリートの基礎がむき出しになっています。しかし、コンクリートは長年の風雪によるものなのか自然になじんでいて、その眺めからは日本にいるとは思えないような風景が広がっています。夜のライトアップは様々な色で彩られてとても幻想的でした。
佐渡金山に向かう途中にあります。向かい側には佐渡鉱山や石積アーチ橋もあり、車を第三駐車場に停めて散策するのも良いでしょう。
場所が分かりにくいです。
鉱石の処理場跡とのことですが、一瞬南米インカ帝国の遺跡のように見えてしまいました。壮大な歴史的建築物には圧倒的雰囲気がありました。
写真を撮るための場所という感じですね。撮った後直ぐに移動した。
建物の土台しか残されてはいませんが、ここが一番気に入ったかも。くれぐれも7色ライトアップとかしないでね、不粋だから。
| 名前 |
搗鉱場跡(とうこうばあと) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0259-63-3111 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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搗鉱場跡(とうこうばあと)は、佐渡金山の近代化を支えた製錬施設の一つで、低品位の鉱石を粉砕し、水銀を使って金銀を回収する搗鉱製錬を行っていた場所だ。江戸初期に導入された水銀アマルガム法を、明治期になって機械化・大規模化したのがこの搗鉱場で、スタンプミルと呼ばれる大型の搗鉱機で鉱石を細かく砕きながら水銀と混ぜ、金銀を効率よく抽出した。日本の鉱山技術の中でも当時最先端とされ、全国から技術者や見学者が訪れたという。この間ノ山地区に搗鉱場が設けられたのは明治中期。第一搗鉱場の完成年は1891年説と1893年説があり、第二搗鉱場は1899年説と1901年説がある。いずれにしても1890年代には搗鉱製錬の体制が確立し、明治末には三つの搗鉱場が稼働していた。1908年には第三搗鉱場が落成し、50本のスタンプを250馬力モーターで動かす大規模設備となった。鉱山の山手側からトロッコや索道で運ばれた鉱石は、ここで粉砕・製錬され、金銀が回収された。1924年には火災が発生し、第1搗鉱場が全焼(現地説明板では両搗鉱場焼失と記載)したが、翌1925年に鉄筋コンクリート基礎で再建された。現在残っているのはこの時の基礎部分だ。昭和に入ると、戦時下で金銀の増産政策が一時進められたものの、浮遊選鉱法など新技術の導入で工程が置き換わり、1943年には搗鉱場の操業が停止された。およそ半世紀にわたって佐渡金山の生産を支えた施設だった。周辺には、搗鉱場と鉱山施設を結んだ間ノ山上橋・下橋が残っている。1904年の銘板がある石造単アーチ橋で、人造石(たたき)工法による重厚な造りだ。これらは国の重要文化財に指定され、当時の鉱石運搬路を今に伝えている。対岸の北沢地区には1938年完成の貯鉱舎や、1940年竣工の直径50mシックナーを備えた北沢浮遊選鉱場跡があり、搗鉱場で出た鉱滓もここで再処理されていた。1930年代後半には月間5万トンを処理する能力を誇り、東洋一とも称された。この地区では1900年代初頭から鉱石輸送に索道(ロープウェー)も使われ、高任坑と間ノ山搗鉱場間の鉱石運搬に活用された。港湾施設では大間港と北沢地区を結ぶ蒸気動・ブライヘルト複線式架空索道が設置され、これは日本で最初の事例とされている。大間港は1892年に完成した積出港で、ここから金銀や精鉱が本土へ送られた。搗鉱場周辺の五郎右衛門町や清右衛門町は鉱山従業員の住宅地で、往時は技術者や家族で賑わった。坂を下れば佐渡奉行所跡や山神社、寺院群など鉱山町の歴史を物語る史跡も多い。山側には江戸期から採掘が続いた道遊の割戸がそびえ、採鉱現場と製錬所跡が一望できる。搗鉱場跡の石垣は緑に覆われながらも形を保ち、近代化産業遺産としての存在感を放っている。ここは、佐渡金山の採掘から製錬までの流れを直感的に理解できる場所であり、日本の鉱山技術史を知る上で欠かせない遺構だ。