沖縄戦の記憶を刻む、シュガーローフ。
慶良間チージ(シュガーローフ・安里52高地)の特徴
沖縄戦の激戦地であるシュガーローフの歴史的な重要性を感じられます。
貯水塔のそばにある碑文が心に響く、静かな場所です。
ゆいレールおもろまち駅から徒歩圏内でアクセスが非常に便利です。
沖縄戦の激戦地。字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローブ”と呼んだ。一帯の丘陵地は日本軍の首里防衛の西の要衝で、米第 6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。とくにここ慶良間チージの攻防は、1945年 5月 12日から 1週間に及び、1日のうち 4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死傷者 2,662人と 1.289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。それ以後、米軍は首里への攻勢を強め、5月 27日、首里の第 32軍指令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は6月末まで続いた。-案内板より-
大東亜戦争の戦跡めぐり沖縄戦の激戦地の1つです。今は、その様相もない場所です。この丘を巡り日米双方の戦いがありました。この丘の形状から日本軍は「すりばち丘」、米軍は「シュガーローフ」と呼びました。実際にここに立ってみると周囲が良く見え戦術上有利な地形ですが、物量を有する米軍には勝つことは出来ませんでした。駐車場はありません。近くのジョイフルで食事をしたついでに見に行くと良いでしょう。
ゆいレール おもろまち駅至近、おきみゅーからも近いです。高台なので階段又は坂道を上ります。給水塔が真ん中に在る公園で説明盤等以外は戦跡の面影は特に有りませんが、ある程度の予備知識を仕入れて当時に思いを馳せるには良いと思います。
明るい街中の一角が太平洋戦争の激戦地なのには考えさせられるものがあります。
駐車場無し・トイレ施錠で使えず・水栓あり。DFSの道向かい、大きなホテルの横の丘に「安里配水池」の巨大タンクが見えます。県道から(何の標識も無い)階段を101段登ると到着。更に25段の階段がある展望台に登ります。展望台が完成した頃は見晴らしが良かったのでしょうが、今や慶良間はホテルとツインタワーの隙間からチラッとしか見えません。ココが激戦地だったとは思えない静かな場所です。巨大タンクを一巡りすると裏側に施錠したトイレと保守用の道路がありますが、結局は最初の階段を降りる事になります。
ココへ行く階段入り口には看板等は一切無く、他の方の投稿を見て「あ〜この階段だな」って感じです。100段以上ある階段を登るとあります。卒塔婆は新しくなった様でキレイな木の色をしてました。まぁ、コレが何なのか他の方の投稿にもあるので、私が改めて説明する必要は無いでしょう。
沖縄戦激戦地のシュガーローフです。多数の命が散った場所です。近年は整備され、配水池や那覇の市街地を臨むスボットとして整備されています。那覇新都心に隣接し、付近には高層マンションやホテルも在り、都市部の賑やかさと隣合わせで、戦争の激戦地であったことは判りにくいですが、当地の案内板やらを読むと、歴史を感じます。
沖縄戦の激戦地…小高い丘にあり、貯水塔の横に碑文があります。
今では激戦が繰り広げられたとは思えないくらいの町中で、今では新しい建物に囲まれた貯水タンクです。
| 名前 |
慶良間チージ(シュガーローフ・安里52高地) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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79年前の同時期5月、この小さな標高50mに満たない丘を巡り、米海兵隊24000人余りと約6000人が1週間に渡り死闘を繰り広げた慶良間チージに平日昼間に伺いました。こちらを突破されると首里城地下に構築された司令本部に攻撃の手が届くので、日本軍としては是が非でも死守したい場所でした。こちらのシュガーローフと共に、小高い丘のハーフムーンと窪地のホースシューの3陣地からなる反射面陣地の防御線を構築し、4倍以上の戦力の米軍に2600名以上の死傷者を出したのですから、その防御線の強固さは想像に難くありません。シュガーローフの由来は、爆撃により丘の頂上部分が削られて白い花崗岩が剥き出しになって、見た目が文字通り白砂糖をまぶしたように見えた事から米軍が名付けたとの事です。その当時の攻撃の激しさを伺い知る事ができる名前ですね。現在は、ハーフムーンは道路の造成によりその姿を消して、ホースシューも姿を確認する事は出来ませんでした。シュガーローフも造成によりその姿を大きく変えて、当時の激戦を窺い知る事ができるのは、小さな記念碑と寂しげに佇む一基の卒塔婆だけでした。私自身、この丘の下を何度も通っていたにも関わらず、ここが激戦地であった事は知りませんでした。ウクライナとロシア、イスラエルとハマスが激しい戦闘を繰り返す現代に対して、この地の過去の激しい戦闘の爪痕を殆ど感じないこの景色に深い感慨を覚えました。いつまでもこの平和が続く事を願うと共に、ウクライナ、ガザ地区での戦闘が一刻も早く終わる事を願います。