足利義尚公の歴史を感じる。
足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地の特徴
小さな公園のような場所で、歴史を感じることができます。
足利義尚公が陣を敷いた歴史的な証が残っています。
甲賀武士五十三家の名が刻まれた貴重な史跡です。
ここが鈎の陣の跡かどうかは分からないけど、石碑も建っているし、これはこれで。旧東海道沿いのこの辺りに滞在したということだけでも、感慨深いものがあります。近くの永正寺に、鈎の陣跡とされる土塁と堀の跡が残っていています。
室町時代後期の室町幕府第9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)が、近江守護の六角高頼の討伐のため、近江鉤に長期滞在することになったが、享年25の時、ここ近江鈎の陣中で病死したそうです。
真田戦記足利義尚と鈎の陣所 (本陣石碑)室町幕府9代将軍足利義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣しました。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走しましたが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされました(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど、華やかな儀礼も行われました。長享3年(1489年)3月26日巳の刻(午前10時)、近江鈎の陣中で病死しました。享年25(満23歳没)。死因は過度の酒色による脳溢血といわれています。ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり。
小さいけど公園あり、子供を遊ばせられます。
小さな公園のような感じで、石碑をそれぞれに追っていって足利義尚将軍の人間関係に思いを馳せるくらいしかできません。甲賀の方を向いて当時の軍人達の気持ちになってみるとか、、娘を連れていきましたが、歴史への思いを深めるとまではいかないようでした。この後、陣所跡の寺にも行きました。(この場所の画像ではないのですが、栗東市役所1Fに飾られていた足利義尚将軍 騎馬行列を模した鎧と添え書きの画像を参考に添付させていただきます。展示場所は別の場所ですが、この地についての情報としてはこちらがふさわしいと思いますので。)
室町幕府9代将軍・足利義尚公の陣があったという碑があります。
鈎の陣にて、歴史に初めてその名を刻んだのが、甲賀武士五十三家(俗に言う、甲賀忍者五十三家)と呼ばれている豪族集団でした。この鈎の陣で、足利義尚が敗退した事で、室町幕府の失墜は決定的になってしまいました。それによって、天下統一を成さんとする各地の大名達が覇権を争うようになったのですから、この鈎の陣は、新たな幕府=天下の模索の始まりでもあります。
史跡としての価値はあるのですが、さすがに碑があるっきりですので少しさびしいかな?^^;
応仁の乱後、近江守護・六角行高が寺社や奉行衆の所領を横領し始める。下克上の空気が漂いはじめていた時期。室町幕府9代足利義尚が自ら軍を率い、この地に陣を敷いた。六角氏は甲賀に逃れ、甲賀衆のゲリラ戦が執拗に展開された。甲賀忍者が意識された最初かも知れない。元々、健康的ではなかった義尚は後に陣中で病死。児童公園とも言いかねる小さな面積に歌碑が並ぶ。義尚にも(日野富子の息子っすね)行高にも感情移入しにくいから、「ふーん」と納得するだけ。
| 名前 |
足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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「鈎の陣」の位置はこの場所の北西400mの永生寺の場所で、土塁が残っているので確実なのに、なぜこの場所に石碑があるのかずっと不思議でしたが、江戸時代の絵図を見て納得できました。鈎の陣の寺内村からこの場所に通じる道があったんですね。そして旧東海道を通る旅人はこの場所から「鈎の陣」を見物できた…ということなのでしょう。近年の開発に伴って、その細道が消えたあとに残った痕跡ですね。図面を眺めていると「寺内村」の土塁の周囲だけ地割が入り組んでおり、東側の「東浦」という字名も勘案すると、土塁の周りには堀があったのかもしれませんね。細道はその堀の外周と旧東海道をつなぐ道だったのかも。