聖護院隣、凖提観音のご利益。
積善院 凖提堂 (五大力さん)の特徴
境内に密集する多様な建物が、五大力さんのご利益を感じさせます。
別名人喰い地蔵と呼ばれるお地蔵様が、大変素晴らしいと評判です。
聖護院門跡の塔頭としての豊かな歴史を有する寺院です。
凖提堂(じゅんていどう)は凖提観音(じゅんていかんのん)をお祀りする寺として創建されました。 生涯に渡り凖提観音の信仰を拡めた「豪潮(ごうちょう)」というお坊さまに帰依しておられた光格天皇は、豪潮の勧めもあり凖提観世音菩薩を祀る事を発願されます。 熊野神社の南に凖提堂が創建され、一七九九年八月一日に聖護院宮(しょうごいんのみや)盈仁親王(ゆうにんしんのう)により本尊が開眼供養され光格天皇も参詣されたことや、禁裏や御所女中、尼寺である霊鑑寺などから多くの寄進があった事が記録に残ります。 現賽銭箱も今は無き二條新地の女性たちの寄進であったことが記されています。現本堂は江戸時代の本堂が伝わっていますがこの本堂は大正十三年までは旧地にあり、明治期の参道の写真も残っています。修験禁止令によって明治十三年に積善院が合祀され、大正三年に聖護院の旧鎮守社跡の現在地に移動し、その際に本堂が広げられました。昭和四十年代に収蔵庫形式の内内陣が完成、積善院の御本尊、不動明王と共に祀られました。 さらに平成二十六年に改修工事が行われ、才知院本尊弁財天、定泉院本尊役行者も共に祀られています。 この時明治の神仏判然令によって、削り取られた柱の菊の御門を復元しています。(同社HPより)凖提観音凖提観音(じゅんていかんのん)は『仏道修行を志す者を導き、あらゆる難から人々を救い、人の心の汚れ(煩悩)を清淨にして悟りの世界に導く』とされます。 凖提観音の修法を行う者は、清濁、出家・在家、飲酒肉食、既婚・未婚を問わず、仏道を達成すると言われます。当院の凖提観音は光格天皇の勅願ということもあり、木造彫刻の凖提観音としては非常に大きな姿をされています。(像高三百二十センチ) 更にその大きさだけでなく、細部の造形も非常に緻密で目を見張ります。 創建に深く関わられた光格天皇が崩御されたのち、欣子内親王は凖提観音を本尊として供養されたことが史料に伝わります。 凖提観音は「五大力菩薩」と共に祀られる事が多く、当院でも毎年二月二十三日に五大力菩薩が開帳されます。(同社HPより抜粋)Junteido was built as a temple to enshrine Kannon. Emperor Kokaku, who had been a devotee of a monk named Gocho who spread the faith of Kannon throughout his life, decided to enshrine the Bodhisattva Gocho at Gocho's advice. An application will be filed. A temple hall was built to the south of Kumano Shrine, and on August 1, 1799, the principal image was offered a memorial service by Prince Yuunin of Shogoin Palace, and Emperor Kokaku was also worshiped. There are records that it was visited and that there were many donations from the Imperial Palace, the maidservant of the Imperial Palace, and the nunnery Reikan-ji Temple. It is written that the present offering box was also donated by the women of Nijo Shinchi, which no longer exists.The current main hall is said to be from the Edo period, but this main hall remained on the old site until 1920, and there are still photographs of the approach to the shrine from the Meiji period.Due to the ban on Shugen Shugen, Sekizen-in was enshrined in the 13th year of the Meiji era, and in the 3rd year of the Taisho era, it was moved to the current location of the site of the former guardian shrine of Shogo-in, and the main hall was enlarged at that time.In the 1960s, a storage room-style inner shrine was completed, and it was enshrined together with the principal image of Sekizen-in, Fudo Myo-o. Furthermore, renovation work was carried out in 2014, and Saichi-in's main image of Benzaiten and Josen-in's main image of En no Gyoja are enshrined together. At this time, the chrysanthemum gate, whose pillars had been carved out, was restored in accordance with the Meiji Era's Shinto and Buddhism laws.(From the company website)Kannon KannonJunteikannon is said to ``guide those who aspire to practice Buddhism, save people from all kinds of hardships, and purify the filthiness (worldly desires) of people's hearts to lead them to the world of enlightenment.'' It is said that those who practice the practice of Kannon will attain Buddhism, regardless of whether they are pure or not, whether they are monks or laypeople, whether they drink or eat meat, whether they are married or unmarried.The Kōdai Kannon at our hospital is said to have been the imperial wish of Emperor Kokaku, so it is a very large wooden carved Kōdai Kannon. (Statue height: 320 cm) Not only is it large, but the details of the sculpture are also extremely detailed and eye-catching. After the death of Emperor Kokaku, who was deeply involved in the founding of the temple, historical records indicate that Imperial Princess Kinko held a memorial service with the Kannon as the principal image. Kannon is often enshrined together with the Five Power Bodhisattvas, and at our hospital, the Five Power Bodhisattvas are unveiled on February 23rd every year.(Excerpt from the company's website)
聖護院門跡から足を延ばして久しぶりに参詣しました。長い名前は「積善院」と「凖提堂」が合併したためです。境内には「人食い地蔵」・「お俊伝兵衛恋情塚」に加えて「三高地蔵尊」などという面白いものがあります。その近くの鬼瓦はいい顔をしています。なお「恋情塚」の発起人の一人は義太夫の不世出の名人「豊竹 山城少掾」であることを知りました。2024年11月14日。
聖護院の隣にあります。御朱印は、書き置きの物を頂けます。
2023年2月2日に訪れました。聖護院門跡や須賀神社が節分祭りで賑わう中、こちらは静かに落ち着いた雰囲気。2月下旬に行われる五大力尊法要が有名ですから…と、どこ吹く風…ということではないですが、書置きの御朱印が凖提佛母尊と大弁財天と、それぞれ、お姿が描かれたバージョンもあって、拝受。焚き火に温まりながらご利益を得ました~
お昼時に参拝しました御朱印も書き置きですが気持ち良く頂けました。
境内は決して広くはないが 、様々な建物が密集しており、のぼり旗や提灯もそして石造物もを多くあって、 そこにいるだけで五大力さんの ご利益に預かるような雰囲気だ。
21年9月27日に訪れました。積善院と凖提堂が合併しました。本堂に、凖提堂の御本尊・凖提観音像と、積善院の御本尊・智積不動明王像(重要文化財)が安置されています。本堂の裏あたりに「崇徳院地蔵」別名「人喰い地蔵」があります。崇徳(すとく)上皇は、保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐国(香川県)に流され、亡くなりました。その後、ききんなど天災がおこり、崇徳上皇の霊の祟りだと京の町の人々は考えました。崇徳院の霊を慰めるために聖護院の森の中に地蔵を祀り、供養しました。明治の時代に現在の『積善院凖提堂』の境内に移されました。「すとくいん」が「ひとくい」になまって「人喰い地蔵」と呼ばれるようになりました。面白いですね。御朱印もいただけます。(今回はいただきませんでした。)
聖護院の東側に位置しています。有名な大きな寺院が近くにある中で、通り過ぎるには惜しい雰囲気のお寺さんでした。五大力さんのご祈祷、一度行ってみたいです。
概略:積善院は、もと栴(なぎ)ノ坊と号する。聖護院の一院家で、熊野神社の西北方にあったが、大正初年、この地にあった凖提堂と合併され、積善院凖提堂と称するようになった2020年2月23日 (日)五大力菩薩のご開帳がなされ、盗難除けの御札、お守りの授与があります。
| 名前 |
積善院 凖提堂 (五大力さん) |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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凖提堂の御本尊は凖提観音で、こちらでは凖提観音の随身が五大力菩薩とされています。五大力菩薩は、「仁王般若波羅蜜経」に基づき、・金剛吼菩薩(こんごうくぼさつ)・無畏十力吼菩薩(むいじゅうりきくぼさつ)・龍王吼菩薩(りゅうおうくぼさつ)・無量力吼菩薩(むりょうりきくぼさつ)・雷電吼菩薩(らいでんくぼさつ)の五菩薩とされています。五大力菩薩は、現代でも国家鎮護や国土安穏を祈念する「仁王会(にんのうえ)」の場で登場します。その後、「金剛頂経」に空海(774〜835年)が独自の解釈を加えた「五大明王」が構成され、・不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王五大力菩薩と習合します。その結果、もともと柔和相であるはずの菩薩像が、憤怒相として定着することとなります。五大菩薩と五大明王は、五智如来とともに東寺の講堂で立体曼荼羅として一堂に会しています。「紫式部日記」(1008〜1010年)には、「まだ夜深きほどの月さしくもり、木の下をぐらきに、『御格子まゐりなばや』『女官はいまださぶらはじ』『蔵人まゐれ』などといひしろふ程に、後夜の鐘うちおどろかし、五壇の御修法、時はじめつ」拙訳:夜明け前の月に雲がかかり、ほの暗かったところ、「蔀戸(しとみど)を開けよ」「女官はまだ揃わないのか」「蔵人集まれ」などと声が上がっていると、暁の鐘が鳴り、五大明王の祈祷が始まったとの記録があり、土御門邸もしくは宮中で五大力信仰が修法されていたことがわかります。同じ頃、藤原道長(966〜1028年)は、自身の40歳を記念して五大明王像を彫らせており、そのうちの一体「(土力)不動明王」が、いまでも東福寺塔頭の同聚院に祀られています。阿弥陀信仰(極楽浄土)、観音信仰(現世利益)、薬師信仰(病気平癒)などが現代でも生き残り続けていることに比べると、五大力信仰は薄らぎ始めているような印象を抱きがちですが、毎年一月八日から七日間、東寺にて国家鎮護のため後七日御修法(ごしちにちみしほ)が執り行われています。