大徳寺聚光院で障壁画の里帰り。
聚光院の特徴
大徳寺の聚光院では国宝の障壁画が特別公開中です。
千利休の菩提寺として歴史的価値が高いお寺です。
狩野永徳の襖絵や千住博の滝が魅力的な非公開作品です。
2024年3月10日に訪問しました。大徳寺の塔頭です。5年ぶりの特別公開が2022年9月から2023年3月まで行われていましたが、それ以外の期間は非公開のため訪問日は拝観することができませんでした。次回の特別公開は早くても5 年後ぐらいになるんでしょうね。戦国武将の三好長慶の墓所だけでなく、茶道三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の歴代墓所があることから茶道を嗜む方の聖地になっているようです。
中を拝観させていただきました。狩野永徳の数少ない現物の作品の一つである襖絵を見学できました。襖絵で現存しているものは唯一とのこと。
初めて大徳寺聚光院様に伺いました。今回は28日以外の来山ということで、事前に利休居士墓参の旨を葉書にしたため、来山しました。利休居士墓参以外にも本堂参拝も葉書にしたためて来山したほうが無難です。墓地は、利休居士はじめ茶道三千家や三好長慶の御廟がありました。今回は、裏千家同門社中として助講師の許状をいただいた報告で利休居士・裏千家歴代宗匠方の御廟に手を合わせましたが、墓地内は基本写真不可です。
中を拝観させていただきました。狩野永徳の数少ない現物の作品の一つである襖絵を見学できました。襖絵で現存しているものは唯一とのこと。
2023年3月までの特別公開時期に訪問し、狩野永徳、松栄と千住博の襖絵を見ました。40分間の鑑賞ツアー形式でガイドが説明されます。国宝の襖絵を40枚以上一度に見る事ができて良かったです。襖として四面に配されることで奥行きや視点を誘導する絵図など驚きの連続でした。千住博の「滝」も圧巻。千利休と茶道の各お家元の菩提寺で、石庭や茶室全てが日本の宝です。感動の一時でした。受付で荷物を預けて撮影録音は一切禁止です。
大徳寺にある寺院。時間予約で拝観、専門のガイドさんによるそれぞれのお部屋の説明。特に見るべきものは国宝・本堂障壁画と、特別公開の千住博画伯の『滝』。そんな中でも眼を引いたのは茶室に入るまでのお庭の構造、いかに心穏やかにするための工夫。井戸のつるべが傾いていて?と、思ったら、初めからその様な造りで他も同じ様にあると説明頂いたが、凡人の自分にはそれが気になって心穏やかにれるのだろうか?
今特別公開中です。事前予約制ですが当日受け付けも有ります。40分程のツアー形式で説明を聞きながら見てまわれます。国宝の障壁画は見応え有ります。写真は撮れません。
「大徳寺 聚光院 国宝里帰り 特別公開」に行ってきました。予約なしだったのですが、平日ということもあってか、その場ですんなりツアーに参加できました。里帰りの永徳や松栄の襖絵は、博物館で並列に並べて観るのでなく、本来の部屋の襖の配置でみると、それを計算して作られた趣向を知ることができ、なかなか興味深かったです。今回、一番驚嘆したのが現代日本画の千住博の『滝』。その襖絵の部屋に通らされた瞬間、参加者から思わず「おおっ!」の声が。とても部屋とマッチしていました。襖絵=昔の人の技巧、という訳ではないんだなと思いました。この画は里帰りという訳ではないようですが、常に公開されているものでもないようなので、ぜひこの機会に観られることをお勧めします!
2022年9月から狩野永徳とその父、松栄が描いた本堂の障壁画46面が、京都国立博物館から里帰りしています。見事な障壁画を拝見しながら、ガイドさんの案内でじっくり見る事ができます😊千利休の菩提寺でもあるお寺でその昔にタイムスリップするのも良いですよ😊
| 名前 |
聚光院 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
075-492-6880 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
京都の聚光院には、『千利休』のお墓があります。(千利休はなぜ処刑されたのか?)千利休が1591年に豊臣秀吉に切腹を命じられた理由は、公式には不明ですが、大徳寺の山門に自身の木像を安置した『不敬罪』が直接の引き金とされています。実際には、わび茶を追求する利休と、黄金の茶室など派手な形式を好む秀吉との『茶の湯の観点の相違』や利休の影響力を危険視した政治的確執などが複合的に組み合わさった結果と言われています。切腹の主な説⦿大徳寺の山門の木像説大徳寺の山門(金毛閣)に利休の木像が置かれ、そこを秀吉が通ることが踏みつけにされるとして激怒した説。⦿茶道観の不一致:質素な『わび茶』を理想とする利休と、権力誇示の豪華な茶を好む秀吉の対立。⦿商売上の不信:茶道具を高値で売買し、私腹を肥やしていた(高額な茶器の販売)とされる疑惑。背景と経緯⦿秀吉の嫉妬と権力。利休は茶の湯の指導者としてあまりにも影響力を持ちすぎ、天下人である秀吉自身の支配する空間を茶人(商人出身)に左右されることを嫌った(嫉妬)。⦿側近の対立:石田三成らが利休と秀吉の関係悪化を画策した、あるいは、利休の娘の側室入りを拒否したことから関係悪化に繋がったとも言われています。⦿最期:天正19年(1591年)2月28日、派遣された軍勢に取り囲まれる中、聚楽第屋敷で70歳で切腹しました。このように単一の理由でなく文化・経済・政治的な要素が重なり、利休の『わび茶』が秀吉の絶対的な権力と相容れなくなったためとされています。