玉垣の美、応神天皇の神社。
金丸八幡神社の特徴
お祭りの祭神は応神天皇と神功皇后であることが特徴です。
玉垣や立石が並んでいる独特の風景が魅力的です。
神籠石の説も楽しめる神社の歴史があります。
金丸八幡神社といえば!毎年10月15日開催「秋季大祭」の宵の日(14日)に開催される「金丸八幡神社 宵宮神事」が超有名です(^.^)!!徳島県内でも数少ない、古くから残る秋祭りの神事であり、県民俗文化財に指定されています。神事は午後7時頃からはじまり、神殿の前に敷かれた舞台「蹴板(けいた)」の上では、御石(おんじゃく)の行事、剣の舞、四王子の舞、乙子の五郎の舞、榮場のお開き・・・といった流れで行事や舞(物語)が行われ、最高に見ごたえがあります(^_^)!!
八幡神社徳島県三好郡東みよし町中庄1187祭神応神天皇神功皇后武内宿禰天津加佐比古命玉垣の如く並んだ立石が特異です神籠石という説もありますがやはり玉垣が正解と思われます。
| 名前 |
金丸八幡神社 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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金丸八幡神社(かなまるはちまんじんじゃ)。徳島県三好郡東みよし町中庄。(合祀)式内社(小)田寸神社(タワノ)論社、旧村社。【祭神】大己貴命 応神天皇 武内宿禰 神功皇后資料によると、創建年代は不詳。明治28年(1895年)の古社取調書によれば、往古は建石神社と称し、大己貴命を祀っていたという。この建石神社が式内田寸神社論社。中古になり、字明ノ堂に鎮座の金丸神社を合祀し、金丸神社と称するようになった。鎌倉時代から室町時代にかけて、当地は「金丸庄」と呼ばれ、京都醍醐寺の領地だった。往古は境内東に別当寺があった。三宝院文書の寛喜3年(1231年)3月28日付の成賢僧正譲与状の中に、遍智院領として「阿波国金丸庄」の名が見える。醍醐寺三宝院は近世期には真言派修験(当山派)のセンターとして強大な勢力を持つに至るが、中世期の醍醐寺(修験)も、当地の宗教文化に少なからぬ影響を与えた。同じ中庄にある五滝神社は往古、滝の丸の山上に鎮座していたことにより清滝十二社権現と称したが、清瀧権現は醍醐寺の守護女神である。金丸三ヶ庄、つまり中庄・西庄・毛田の金丸郷一円の氏神である。いつしか、武家の命により、金丸郷八幡宮と改称した。江戸時代前期の慶長11年(1606年)遷宮の棟札を有する。祭典は旧金丸三ヶ庄氏子により行われ、江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)までは退廃に傾いていた。しかし、享保12年(1727年)、神主金太夫西庄益太夫、毛田神職都合神官神職6名導師長善寺林下寺立ち会いで、例祭を執行するようになったという。さらに正八幡宮に改称し、明治3年(1870年)、現社号に改称した。御祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・天津加佐比古命・竹内宿禰命。天津加佐比古命は、やはり式内社「天都賀佐比古神社」(論社に美馬市美馬町の轟と西荒川)の神名。当社で祀られている理由は分からず、これは往古の大己貴命の誤りではないか、との指摘もある。境内をとりかこむ玉垣がわりの立石を磐境とみると、いかにも古社のたたずまいである。前方の金丸山全体が神山であつて、加茂川にそう渓谷には岩蔭遺跡があり、先史時代の石器(旧石器も)や土器が出土している。また周辺には、4世紀の頃の前方後円積石塚の丹田古墳(県史跡)をはじめ多くの古墳群があり、北方には白鳳期の金丸廃寺跡や極樂寺跡があり、文化的にも早くひらけたところである。また、この界わいには條里の遺構もみられる。なお、式内社「田寸神社」の論社は他に、加茂の式内同名神社と鴨神社、美馬市脇町の西照神社、三好市井川町の武大神社がある。とあります。