毛利元就が築いた戦略の丘。
宮尾城跡の特徴
小さなながらも歴史的意義のある宮尾城跡です。
厳島の戦いが繰り広げられた貴重な城の跡です。
安芸国佐西郡厳島に位置する歴史深い場所です。
地図では想像できなかった、険しさに驚いた場所です。賑やかな通りから1本入り、登り道を5分ほど歩くと宮尾城跡に辿り着きます。ここは毛利元就vs陶晴賢の戦いで、毛利軍が築いた城を陶軍がなかなか落とせなかった場所として知られています。航空地図で見ると非常に小さく、「これはあっという間に攻め落とせそうだ」と正直思っていました。ところが実際に訪れてみると、その地形の険しさに驚かされました。階段が整備されている箇所もありますが非常に急で手すりもなく、降りるのを途中で断念するほど。登り道はいくつかあるものの、いずれも急斜面で、道を外れると断崖絶壁といった様相です。「なぜ陶軍が落とせなかったのか」が、訪れて初めて体感としてわかりました。なお、城址として遺構や説明板があるわけではないので、何もインプットせずに訪れると少々物足りなく感じるかもしれません。事前に毛利元就と陶晴賢にまつわる歴史を調べてから訪れることを強くおすすめします。歴史好きの方にとっては、想像力がかき立てられる特別なスポットです。
「宮尾城跡(みやおじょうあと)」は、広島県宮島(厳島)にある歴史的な城跡で、日本三大奇襲の一つに数えられる厳島の戦い(1555年)において、毛利元就が勝利を決定づけた戦略的な重要拠点として知られています。この城は、毛利元就が、圧倒的な兵力を持つ陶晴賢(すえ はりたか)を狭い宮島に誘い出すために築いた城です。現在は「要害山(ようがいざん)」と呼ばれる標高約27mの小高い丘になっていて、公園として整備されています。建物は残っていませんが、郭(くるわ)の跡や、わずかに石垣の跡が見られます。城跡内には神社が建立されています。
特に目立った遺構が残っているわけではないですが、景色はとてもいいので穴場としてオススメです。
なぜ落城しなかったか気になり訪れてみました標高約50メートル 西側はほとんど絶壁実際に来てみて納得しました。
歴史的には凄い場所なのですけどそれを感じさせてもらえます物は無いかなぁ・・・と言う感じでした。
厳島合戦を語るには外せない城です。毛利元就は大寧寺の変で主君を弑虐した悪人、陶晴賢を厳島に誘い込むために急造で囮の宮尾城を築き....というのは全て不正確な俗説で、実際にはそれ以前から城として整備されていたとか。工藤新一みたくデート終わりに10分もらって駆け上がり見て回りましたが、口コミで見ていたよりも城の雰囲気を感じます。宮島では珍しく、静かな時間が流れています。
Youtube動画の『Yukimura ch』さんがやってる『毛利元就編』がめっちゃ面白いんよな。もうすぐ厳島合戦の動画やろって事で小学校の修学旅行以来久しぶりに宮島&厳島神社に来ました。宮尾城跡に来たのは初見ですwこの場所で陶晴賢2万人に対して毛利元就の家臣己斐直之?(やったと思う)が1500人で籠城して陶晴賢を引き付けてたんよな。瀬戸内海の景色は綺麗やったけど海水はそこまでやな。フェリー往復500円、厳島神社300円でしたよ。
厳島合戦の際に毛利元就方が布陣した城とのことですがそれを感じられるような遺構もなく景色も臨めないので雰囲気だけしか味わえません雑木林がなければ湾が見渡せるであろう小高い地点なので厳島合戦においてはそれなりに重要なポイントではあったのかなと想像します。
宮島の要害山(標高30m)の小高い丘に戦国時代築かれた山城。大内氏を掌握した陶と毛利元就による「厳島合戦」の舞台の一つで毛利方の城。敵対する陶の本陣は五重塔がある塔ノ沢にあった。現在もこの丘から塔ノ岡の位置が目視で確認できる。厳島合戦以降の歴史では宮尾城の存在が確認できない。現在ではフェリー桟橋やその前の広場や商店街が要害山の麓に存在するが、当時は海岸域が麓まで迫っていたようで、瀬戸内海に面した水軍城の要素もあった。山頂には東小屋と今伊勢神社があり、城としては西曲輪、堀切などが確認できる。
| 名前 |
宮尾城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0829-30-9205 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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宮尾城跡は、宮島桟橋の南200mほどの広島県廿日市市宮島町浜之町にある城跡です。天文20年(1551年)西国随一の勢力を誇った大内義隆(おおうちよしたか)が、家臣の陶晴賢(すえはるかた)による謀反(大寧寺の変)で自害しました。この混乱に乗じて勢力を拡大した毛利元就(もうりもとなり)は、やがて中国地方の覇権を巡って陶晴賢と全面的に対立することになります。しかし、約20,000の軍勢を誇る陶軍に対し、当時の毛利軍はわずか4,000程度と、圧倒的な戦力差がありました。まともに陸上で戦えば勝ち目がないと判断した元就は、瀬戸内海の海上交通の要衝であり、地勢が険しく大軍が展開しにくい「宮島」を決戦の地に選びます。弘治元年(1555年)元就は宮島の玄関口にあたる標高約30mの丘(通称 要害山)に宮尾城を改修・築城しました。前身は地元の水軍が使っていた砦とも言われています。さらに、元就は「今、宮島に攻め込まれたらひとたまりもない」「味方に裏切り者がいる」という偽の情報を流し、陶軍を宮島へ誘い込みました。元就の策略に嵌まった陶晴賢は、同年9月21日、500艘の大船団を率いて20,000の兵とともに宮島へ上陸します。陶軍は厳島神社裏手の「塔の岡」に本陣を構え、宮尾城への総攻撃を開始しました。当時、宮尾城を守っていた毛利方の兵は、己斐直之らわずか500名ほどでした。圧倒的な軍勢に囲まれ、城の堀を埋め立てられるなど宮尾城は陥落寸前の危機に陥りましたが、城兵たちは必死の籠城戦で時間を稼ぎました。大内軍が宮尾城の攻略に釘付けになっている隙に、毛利元就は暴風雨と夜陰に乗じて宮島の背後(包ヶ浦)へ密かに上陸しました。そして10月1日未明、山を越えて塔の岡の陶軍本陣を背後から急襲します。同時に、大鳥居側の海からは三男・小早川隆景の水軍が、城内からは宮尾城の籠城兵が呼応して挟み撃ちにしました。大混乱に陥った陶軍は壊滅し、総大将の陶晴賢は島内で自刃、毛利軍は大逆転勝利を収めました。役目を終えた宮尾城は、その後いつしか廃城となりました。現在の城跡は「要害山(ようがいざん)」と呼ばれ、長年の地形変化や開発により、当時の城の全容を留めてはいませんが、山頂部へ続く道には中世山城の面影を残す堀切(ほりきり)や郭(くるわ)の遺構がわずかに確認できます。現在、山頂には「今伊勢神社」が鎮座しており、激戦を見守った歴史の息吹を今に伝えています。