由緒ある祥雲山妙楽寺で静寂に浸る。
妙楽寺の特徴
祥雲山妙楽寺で見える静かな佇まいが心を癒してくれます。
由緒あるお寺の歴史を感じる、特別なひとときを提供します。
親切丁寧な接客で、訪れる皆様に安心感を与えています。
関東管領の足利基氏(もとうじ)が開基、五山の学僧として著名な義堂周信(ぎどうしゅうしん)の開山といわれている。幾度となく火事に見舞われたか、5点の古記がのこり、市の文化財となっている。風土記にて紹介されていたゆるぎの松は関東大震災に枯れてしまい跡形もなくなったとある。門前に“こまがえ橋“と呼ぶ橋があり、それに関する伝説まである。_______________❷【参考 新平塚風土記稿 1970年】妙楽寺関東管領の足利基氏(もとうじ)が開基、五山の学僧として著名な義堂周信(ぎどうしゅうしん)の開山と伝えている。本尊の千手観音座像、かたわらの位牌壇に「当寺開基端泉院殿玉岩昕公大禅門」と彫刻した位牌がある。足利基氏のそれである。[お寺の額について]江戸時代に大火により大伽藍を失ったが、檀信の言によると、本堂正面の扁額 「妙楽寶殿」は 足利基氏 の筆。総聯(そうれん)の額は 義堂周信(空華)の筆。位牌堂の「妙楽」の額は 足利氏満(うじみつ・基氏の息子)の筆、であったという。現在の山門の額 「祥雲山」は明人の周閨禄の筆である。[揺るぎの松について]1923年(大正12年)9月1日の関東大震災までは本堂の直前にゆるぎの松があった。おしいことに、本堂の倒壊とともに枯れてしまい、其のあともなくなってしまった、という。[古記の文化財] 市の文化財である〇足利直義(ただよし)御教書(みぎょうしょ)・上杉憲顕宛〇足利満兼(みつかね)御教書(みぎょうしょ)〇基高寄進状・しゅきょく首座宛〇豊臣秀吉 禁制〇徳川家康 寺領寄進状[こまがえ橋]「こまがえ橋」という橋がある。「駒返」の文字をもちいて、関係のある伝説まである。____________❶【参考 新編相模風土記 1830年】妙楽寺(江戸の頃)ゆるぎの松というのがある。一枝をうごかすと木全体が動くと云われている。又、珠数懸松(じゅずかけのまつ)ともいわれる。当寺11世の惟山の時に7度も火事がおこってしまった。或る時変わった格好の人が来て、火事を防いでくれる珠数であるとして、この松に懸けたという。よって珠数懸松(じゅずかけのまつ)と名がついたと伝わる。池が西隅にある。鐘ヶ池とよばれる。片葉の葦(※1)がはえている。(※1)同じ方向にしか葉を出さなかったことから、「片葉の葦」といわれる。[沿革]應永11年(1404年)11月 足利満兼(みつかね・第3代鎌倉公方)の祈願所となる。所蔵文書に記載されている。天文19年(1550年)洪水により古い鐘楼があったが、流失してしまった。再建はそれ以後されていないという。文禄3年(1594年)2月 寺領10石の朱印状を賜る[寺寶]△古文書4通一つは観應2年12月 足利尊氏よりの書(詳細は省略)一つは 足利満兼の書一つは 常香免寄進の状一つは 天正の小田原の陣の時 太閤秀吉の制札[號] 祥雲山 中門に“祥雲山”と三字を扁す。明人_周閨禄筆[宗教] 臨済宗 鎌倉建長寺末[本尊] 千手観音[開山] 義堂周信(嘉慶2年4月4日 卒)[開基] 足利基氏(もとうじ・南北朝の初代鎌倉公方)(貞治6年(1367年)4月22日 卒)[境内社] 天神稲荷合社、閻魔堂(村内にあったが、今仮にここに、うつした。)
祥雲山妙楽寺。臨済宗建長寺派で、室町初期の初代鎌倉公方である足利基氏を開基に、義堂周信が開山した寺院。山門の上部に安置されているという閻魔王像は平塚市の重要文化財に指定されています。訪問時は散歩の途中で、何の予備知識もなく只清らかな雰囲気に吸い寄せられる様に寄らせて頂いたのですが、趣のある参道と山門、綺麗なお堂と寺務所が実に見事で、少し得をした気分でした。山門の横などに瓦の置物があるのは何だったのでしょう。もう少し調べてみますか。
親切丁寧な由緒あるお寺。毎日拝んで頂いてありがとうございます。宜しくお願い申し上げます。
静かな佇まいでした。
| 名前 |
妙楽寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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現在は妙楽寺に安置されている。『新編相模国風土記稿』には当寺の閻魔堂が村内にあったことがみえ、本像はこの本尊であったとみられる。閻魔王は冥界の支配者で、初七日から三年まで順次、死者の生前の罪を裁く十王の中心を成す。本像は、頭部が大きく作られ、面貌は眉眼をつり上げ怒号する、かなり誇張した表現につくられている。体部はずんぐりとした体形で、量感があり迫力が充分であるが、左右の袖先は小ぶりで、夜文も強い表現ではなく、全体に頭部に比し穏やかにまとめられている。彫技は本格的といえ、作者の高い技量がうかがわれる。室町時代の像にみるような量感に富む体形と、近世期のやや誇張の麟った面貌表現を合わせ持つ作風とみることが出来よう。等身を超す大法量の本格的造頭で、作風にも中世彫刻の余風を遺す優れた作例である。閻魔王像の基準作例として、本市のみならず県内においても希少な存在といえる。構造は、頭・体部を前後に知ぎ、別に脚部などを知ぎ寄せる。現状、持物(笏)、冠飾を亡失し、両袖先、裳先などに欠失部がある。像表面は、後補とみられる彩色仕上げが残る。