歴史を感じる、赤間神社前。
朝鮮通信使上陸淹留之地の碑の特徴
赤間神社の参拝後に立ち寄れる石碑で、非常にアクセスが良いです。
江戸時代の通信使上陸を記念した歴史的な石碑が印象的です。
阿弥陀公園内に位置し、こじんまりとした雰囲気が漂っています。
歴史溢れる下関。源平の合戦の壇ノ浦、赤間神宮、明治の日清戦争の講和、そしてこの江戸期の朝鮮通信使。歴史バラエティに富みとても贅沢を感じれる。
この碑のある場所からの関門海峡眺めは綺麗です。
まずは、漢字の読み方、意味がわからん。淹留(えんりゅう)→長くとどまること。朝鮮通信使とは。江戸時代における朝鮮通信使とは、豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮侵略によって途絶えていた朝鮮との交流を徳川家康が回復させようと尽力したものです。慶長12年(1607年)朝鮮国から正式の使節団が派遣されるに至りました。当初は、日本からの国書に対する回答と、「刷還(さっかん)」=豊臣秀吉による朝鮮出兵の時に日本に連行された朝鮮の人々を送還するためのものでした。寛永13年(1636年)第4次朝鮮通信使の来日から、家康がめざした本来の目的、信を通ずるための使節団となりました。将軍の代替わりごとにお祝いの使節が朝鮮から来るようになり、進んだ中国の文化がもたらされ、交流と同時に貿易もはじまりました。ここ赤間関(下関)は、本土最初の滞在地で、復路でも立ち寄ることが常でした。
赤間神社の参拝で、駐車場の近くにありました。
江戸時代にあった通信使上陸を記念しての石碑です。
赤間神宮の向かいにあります。朝鮮通信使の石碑があって歴史が分かります。関門海峡が見えて景色もとても良いです!
錨の横、朝鮮通信使上陸の石碑。対馬から九州経由でここに上陸していたのか。
海沿いの公園に石碑がありました。
阿弥陀公園内に2001年に建てられた碑です。朝鮮通信使は室町時代の足利将軍時代から始まっていて、一旦秀吉の朝鮮出兵で中断されました。慶長12年(1607年)、徳川家康が国交を復活させようと使節を招いた事から李王朝との交流が再開されました。文化8年(1811年)、徳川家斉の代まで12回、将軍が代わる際や世継ぎの誕生があると500人位で祝賀の為に訪れていました。対馬を経由し、朝鮮通信使の最初の本土上陸地が現在の下関市(赤間関)でした。往路のみならず、復路も立ち寄りました。この朝鮮通信使上陸の碑が立つ阿弥陀公園あたりには上陸の為の桟橋がありました。廃仏毀釈以前には阿弥陀寺がここにあり、毎回朝鮮通信使の宿泊地となる豪華な客館が設けられ、通信使達が接待を受けたそうです。又、長州藩と朝鮮の学者とで様々な文化的交流がありました。
| 名前 |
朝鮮通信使上陸淹留之地の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
083-231-1350 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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『朝鮮通信使上陸淹留之地の碑』淹留(えんりゅう)」とは、同じ場所に長く滞在すること#朝鮮通信使 が本州で最初に寄港し滞在したのがここ 下関(赤間関)