終戦間近の大社基地、歴史の痕跡を探そう。
旧海軍大社基地跡の特徴
終戦まじかの1945年に僅か4ヶ月で完成した基地の跡地です。
Googleマップの航空写真で痕跡がはっきり確認できる場所です。
残っているのは終戦時の面積の約1.5%と貴重な史跡です。
滑走路の舗装が一部残っていた特攻の訓練基地として終戦まで存在した戦争遺産。
2013年、初めてここを訪れて、大社基地の滑走路が約100m分とはいえ残されている事に感動しました。 自分の足で、かつて銀河が離陸して、そして還らなかったこコンクリート滑走路を踏みしめている! これだけで十分でした。 しかし、話によれば、この僅か100m分残された貴重な滑走路跡を宅地化??? そんなに宅地が不足しているのでしょうか? どうせ20~30年程度で壊されてしまう安普請の住宅の為に、貴重な遺跡が破壊されてしまう・・・・・・。ちょっと哀しくなりました。
先の戦争やこの地域の歴史を伝える上で、歴史好きなよそ者からしても、非常に重要な歴史遺産だと思える。戦争末期、山陰地方までもが戦争の渦に巻き込まれていったことがよく分かるのが、この「大社基地」の存在だと思う。しかし、兵庫県の鶉野飛行場跡へ行った後でこの場所を訪問したことから余計にそう感じたのだが、現地の状況には驚いた。現存する滑走路はわずかで、近年大きな変化があったことが明らかな状況だった。遺構は、確実に消滅に向かっている。出雲市立図書館や島根県立図書館に立ち寄って調べてみると、地元の郷土史家や研究者の皆さんが地道に調査を続け、この基地の建設の経緯やエピソード、この基地を狙った1945年7月28日の米軍の空襲等について、体験者の貴重な証言を集めたり、限られた史料にあたって、知られざる歴史を解明しようと多くの方々が努力されておられることが分かった。貴重な記録や著作が多くあり、その成果には頭が下がった。それだけの「下地」がありながら、今、滑走路は歴史の中に消えようとしている。おそらく、地元の方々にしか分からない事情もあると思う。経済的な事情もあるだろうし、「昔のこと」よりも、「今」や「未来」が大事だというのも否定はできない。便利な生活のための開発は、当然のことだろう。この基地がある出雲市斐川町は、宅地開発が進んでいて人口が増加しているようだし、「コンクリートの空き地」をいつまでも残してもおけないだろう。体験者の方々にしても、忌わしき記憶、負の記憶だと捉えている方もきっとおられると思う。私のようなよそ者が推測するだけでも、多くの背景がある。こうした事情に反論する術はあまりない。行政が下した決断も関係しているのだろう。ただ、先に述べたような地元の方々の調査や記録保存の大変な努力や、多くの人たちがこの基地の建設に携わり、ここから飛行機が実際に飛び立ち、空襲もされ、犠牲者も出たという歴史。そして、もし戦争がもっと続けば、この基地やその周辺はもっと激しい戦火にさらされてもおかしくなかったという当時の状況。基地周辺にもまだ知られざる遺構は残っていること。一体、そうしたことがどれだけ地元の方々に知られているのだろうか。それが気になる。滑走路が消えていっても、せめて、その「歴史」や「記憶」だけでも、戦争の愚かさや平和の大切さを考える材料としても、後世に伝えていって頂けないか・・・と思う。
いま残っているのは終戦時の面積の約1.5%とのこと(2022/5/10付日本経済新聞 夕刊)。記事の写真を見る限りだと、広そうにも見えるけど、現地で見ると狭いのかも。
知る人ぞ知る、終戦まじかの1945年、僅か4ヶ月で完成させた旧海軍の大社基地です。当時の最新鋭陸上攻撃機「銀河」が配備されていた事、又、人間爆弾「桜花」も配備されていたと案内板に記されています。数年前までは、東側に住宅が建設されているとは言え、かなり長く滑走路が確認できたのですが、2019年時点では、東側に今度は太陽光発電設備が出来ており、あと何年滑走路が確認できるのかさびしい限りです。なお、土地の所有は、防衛施設庁のようです。
昔の飛行場跡って感じるよ。
Googleマップを航空写真で見ると痕跡がはっきりと分かります。この先にある太陽光パネル群、斎場、民家、保育園、公園、空き地?までが敷地だったようです。現地は滑走路だった部分に朽ちたコンクリートが残っているだけで、何もありません。
| 名前 |
旧海軍大社基地跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
そう滅多に見れない希少な風景が消え、日本全国何処でも見れる風景に様変わり。