小幡城跡で歴史を妄想。
小幡城跡の特徴
小幡城跡は住宅街の中にあり、案内板だけが残る歴史の痕跡です。
ここは家康が隠密行動をした長久手の戦いの起点として重要な場所です。
周辺の見晴らしが良い高台で、名古屋や小牧山を一望できる素晴らしい景色があります。
あいち歴史観光デジタルスタンプラリーの小牧長久手の戦いコースに入っており訪ねました。歴史的にも由緒ある場所です。
真田戦記小幡城跡愛知県名古屋市守山区西城2丁目16遺構が案内板くらいで地形に高低差があって、それが雰囲気を醸し出しているぐらいですが、小牧・長久手の戦いで、秀吉・家康の両雄に所縁のある城です。最初は大永二年(1522)、織田氏に属する岡田重篤が築城しました。その後、小幡城は織田信秀の弟・信光の居城となりましたが、弘治元年(1555)信光も那古野城中で不慮の死を遂げ、小幡城は一時廃城となりました。天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦で、徳川家康は池田恒興・森長可の羽柴方別働隊を長久手で破った後、直ぐに兵をまとめてこの城に入城しています。救援に駆けつけた秀吉は、近くの龍泉寺城に入城します。家康との合戦に備え、掘・土塁を築き、防備を厚くしていたら、家康は小牧山へ素早く移動。秀吉も楽田の本陣へ戻りました。秀吉は戦後、悔しさのあまり廃城にしてしまいました。
住宅街の高台の城跡。遺構はなく駐車場の角に案内板があるのみ。西側はかなりの高低差で眺めがよく、東側の寺院との間にも段差がある。いくつか郭のある城だったのかと思う。
看板のみです1522年 織田氏に属した岡田氏が築城。1535年 岡崎城主松平清康侵攻→次に守山城を進行するが守山崩れとなり、織田信光(織田信秀の弟)の居城となる1555年 信光死後 廃城1584(天正2)年小秋長久手合戦で 池田恒興、森長可を家康が破った後入城し、小牧本陣に戻る(秀吉は龍泉寺城で対峙してたつもり)その後、怒った秀吉に徹底的に焼き払われた。・守山崩れ ・小牧長久手合戦・白山林の戦。
あるのは看板だけ。駐車場もないので車で行く価値はあるかというと…
小幡城跡(/≧◇≦\)
城の痕跡は何も無い住宅街の案内板だけの歴史に埋もれた場所、案内文もアッサリ😅【尾張・小幡城】1584年4月の3日間だけ歴史の中で輝いた場所、家康側の「長久手の戦い」の起点🏯歴史上で家康と秀吉が、もう少しで直接交戦しそうに成った城、小幡城と秀吉着陣の龍泉寺城と距離約1.6㎞❗️家康本隊が隠密理に小牧山城を出撃⇒小幡城入城、家康本隊/9000u0026榊原・大須賀別動隊/4500集結⇒家康/本隊は色金山から御旗山へ、そして激戦の地/長久手へ⇒羽柴/池田・森隊撃破し速攻/小幡城へ帰還⇒秀吉/兵20000に攻撃される前にコッソリ小牧山城へ撤収⇒秀吉頭来て小幡城を放火破却⇒小幡城跡形も無くなる、そして現在🤔名古屋の守山区にこんな高台👀、西から北の小牧山、秀吉着陣した龍泉寺城方面まで見渡せて良い場所ですね、周辺見て妄想するのみ、車の路肩長時間駐車厳禁‼️
小高い山になっている場所の駐車場一角に、ひっそりと看板のみが建っている場所がある。徳川家康が関わっている城の城跡がこんな場所にあったなんて。でも山の頂上なので、城を造るのには向いている場所なんだと思います。
「小幡城跡」最初の築城は、戦国時代の1522年、織田敏信・織田信安の家臣・岡田重篤(岡田与七郎重篤が築いたとされている。1584年(天正12年)に起きた「小牧長久手合戦」の前哨戦である「白山林の戦い」では、徳川家康は三河との連絡路を保つため、この城を修築し本多広孝に守備させたが、その後は役割を終え廃城となった。標高28.5mの平山城です。城址は現在は宅地化され、遺構はないが、西城小学校や阿弥陀寺のあたりが城域で、案内板が建てられている。
| 名前 |
小幡城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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小牧・長久手合戦の史跡なのですが、この案内板しか有りませんでしたが、付近を歩いてみたら、それが当時のものかはわかりませんが、何となく城趾らしい痕跡が有りました。